o川* ー )o幼年期が終わるようです

《 四 》

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308 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:44:49 ID:9wN2kVL.0
     《 ※ 》



地下牢の迷宮。
苦悶と怨嗟に満ち満ちたこの旧閉鎖棟を、彼は歩く。
主に従い奥へと歩む。

不気味だった。
収容された患者たちはだれもが正体を失っているようで、涎を垂らし、
焦点は合わず、意味のなさないうわごとをつぶやいている。

なのに、である。
それなのに、みな一様に敵意を、憎悪を放つのだ。
収監されたその牢を通りすぎる際、こちらに向けて――
否、前を歩む我が主に向かって。

気に中てられたこちらの息すら止まってしまいそうな呪詛が、
我が主を取り巻くように渦巻いている。

恐ろしい、恐ろしい。
ここも、ここの住人も。
しかしなにより恐ろしいのは、彼らではない。

なにより恐ろしいのは、我が主だ。
眉一つ動かさず一瞥もせず、屹としてその有り様を変じない枯れ木のような我が主が。

素直クールが。

309 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:45:45 ID:9wN2kVL.0
「よう、素直家当主様」

はっきりした声。正体を失った呪詛の主のものとは違う。
それは牢の一室、その片隅から聞こえてきた。
暗闇の中において尚ぎらつく瞳が、素直クールを捉えていた。

「高みからの見物ご苦労様。てめぇで蹴落とした家族や
 男を塵のように見下すってのは、さぞやいい気分なんだろう?」

俺も味わってみたかったぜと言い、男はくくくっと笑った。
けれど目だけは笑っていない。水気のない肌にまばらな頭髪。
死人の身体。なのに目だけが生気を宿している。強すぎる生欲を。

「なんだ、もしかして俺のことも忘れちまったのか?
 俺だよ、ギコだよ。悲しいねぇ。あんなに愛し合ったのによ。
 ……まさかあの子――俺とお前の愛の結晶のことまで忘れちまったんじゃないだろうな?

 そうあの子だよ、あの子。名前は――まあ、どうでもいいか。
 あの子はよくできた子だったよな。見えない物を感じ取ることに関して、
 あの子以上の素直は歴代にもそうはいなかったろうぜ。

 でもなあ、それがプラスに働くかわからないのが世の中ってもんだ。
 あの子は少し、優秀すぎた。おかげで爺さんたちの不興をかっちまった」

310 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:46:40 ID:9wN2kVL.0
男は話し続けている。彼は自らの主を覗き見た。素直クールの表情は変わらない。
ただその歩を止め、かつての夫を感情のこもらない目で見つめている。

「ああ、かわいそうになぁ。誰かさんが必死こいて素直から追ん出したってのに、
 むしろそれが原因であんな目にあっちまうなんてなぁ。
 誰かさんが余計な真似をしなければ、いまも楽しく幸せに暮らしてたかもしれないのになぁ……

 くは、くは、くはは……。

 ……いや、いやいや違うか。あれは”お前の子”じゃなかったな。
 お前の子、お前の”本当の子供”は遠い昔に捨てられたんだったよな、確か。
 確か、うん、そうだ……出来損ないは素直にいらないからな。

 しかし、ああ、あの子はどんな暮らしをしてるんだろうな。
 幸せに暮らしてるといいな。結婚なんかして、子供もできてな。

 自分の血を分けた子がどんな生き方をしているのか、気になるのが親心ってもんだろ?
 どんな人と出会い、どんな男と結ばれ、どんな家族に囲まれ、そして……
 どんな末路を迎えるのか!

 ――なあ素直家御当主様よ、お前の行い<存在>で、誰か一人でも幸せにできたかい?」

311 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:47:22 ID:9wN2kVL.0
男が笑い出す。身体を痙攣させて。哄笑。
悪意に満ちた、その声。周囲の患者たちまでもが、男に便乗して笑い出す。
正体を失っているはずなのに。

「行きましょう」

素直クールが歩き出す。彼もそれに従い、哄笑の檻から離れた。
笑い声の間を過ぎる。過ぎる。過ぎて、男とその追従者の声が聞こえなくなりかけた時、

素直に呪いあれという叫びが聞こえた。


.

312 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:48:06 ID:9wN2kVL.0
          ※



その部屋は四方が赤黒い血に埋め尽くされていた。
血は無軌道にばらまかれているようでいて、大小様々に、
意味のある形――言葉、文を成している。

その文言は、『あのこじゃない』。
血文字で書かれた『あのこじゃない』。

「手を出さず、そのままにしています。消すとまた書き出してしまうので……」

彼は痛ましいその傷跡から極力目を逸らしながら、簡潔に説明する。
旧閉鎖棟は怖い。が、ここが少し違う。
ここにに来ると、胸苦しくなる。だから彼は、言葉を短く切る。

主――素直クールは、そんな従者の思いなど気にする様子もなく、
部屋の奥の暗闇を見つめ、やがて、そこに向かって歩き出した。

素直クールの進む方向、その先には、一人の女性が壁にもたれてうなだれていた。
伸び放題の髪に隠れて顔は見えないが、醸し出す雰囲気から
正常な心理状態でないことは察せられる。そしてその指は、
壁の血と同じ、赤黒い色に染まっていた。

313 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:48:55 ID:9wN2kVL.0
素直クールが彼女に近づく。
一歩、また一歩。
打ちっ放しの石材を踏みしめる堅い音が、正確に、正確に響きわたる。

そしてその音が、止まる。
素直クールが、彼女のすぐ目の前に立った。

うなだれた彼女の頸が、上がった。

「あの子じゃない……」

彼女はよろよろと、素直クールの足にしがみついてきた。
懇願するように、つかんだその手を前後に揺すっている。

「あの子じゃない」

ゆっくりとした前後動が、次第に激しさを増していく。
それに比例して肉のそげた彼女の首が、がくがくと揺れ始める。

「あの子じゃない!」

彼女は止まらなかった。
首の骨が軋みよじれ外れそうになっても、その勢いは欠片も衰えなかった。

自己保存本能の欠如。彼は思う。
何が彼女をここまで突き動かすのだろうと。
今にも事切れそうな骨と皮の身体を揺り動かしてまで。

314 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:50:25 ID:9wN2kVL.0
彼女が何を訴えようとしているのか、彼は知らない。
彼女の言う『あの子』が誰を示しているのかもわからない。
怨みか、恐怖か、後悔か――どんな感情で発せられている言葉なのかも、不明だ。

けれども彼は、彼女の心がそうした悪感情に満たされたものとは思えなかった。
なぜなら――

「あの子じゃない、あの子じゃ――殺したのは、あの子じゃない!」

彼女の言葉には、誰かを庇いだてする響きがあったから。
殺したのはあの子じゃない。『あの子が殺した』でも『あの子が殺された』でもなく、
『あの子は殺していない』という訴え。

あの子とは、この女性の子供なのかもしれないと、彼は思っている。
気を狂わせてまでも自分の子を守ろうとする母親の心情。
子を傷つけまいとする、母の心。

妻は、どんな気持ちだったのだろう。
お腹の子を死産させてしまった時、どれだけの苦しみを負ったのだろう。
二度と子をなせないと告げられた時、どれだけの絶望に囚われたのだろう。

妻は――
ぼくは――

315 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:51:06 ID:9wN2kVL.0
「もういいのです、くるう」

信じられない光景が、目の前で展開された。
素直クールが、あの素直クールが、膝を折り、
目の前の女性を抱きしめたのだ。それもやさしく、いたわるような抱擁で。

「あの子じゃない! あの子じゃない! あの子じゃないぃぃ!」

女性は抱きしめられても構わず叫び続けていた。
自由になった腕が、それぞれ素直クールの肩や背をつかんでいる。

そしてその部位の素直クールの衣服に、じわりと、
朱が広がっていくのが見えた。彼女のものか、
素直クールのものか判別のつかない、骨の軋む音が聞こえてきた。

いけない。

彼は己が主を助けるため駆け寄ろうとした。
だがその動きは、すぐに止まることになる。
素直クールが女性に何か耳打ちした直後だった。
それまでの狂乱が嘘のように、女性は静止したのである。

316 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:51:48 ID:9wN2kVL.0
「……――ート?」

「そう、あなたの娘」

素直クールが、女性の背をなでた。
あやすような手つきだった。

「あなたは良い母ではなかったかもしれません。
 けれどその心はいつも子を思っていた。あなたはやさしい母でした。
 私が保証します。だから、もう、自分を許してあげて……」

「…………おかー、さん? おかー、さん。……おかーさん、おかーさん!
 おかーさんおかーさんおかーさんおかーさん!」

彼女はおかーさん、おかーさんと連呼し出した。
先ほどまでの狂気はどこにもない。
その姿はまさに、母親の胸で泣きつく子供のそれそのものだった。

「おかーさん、おかーさん……おかー、さん……おかー………………」

やがて彼女の声は弱々しく、今にも消え入りそうなか細いものへと変じていった。
そしてついに、その声が止まると同時、素直クールをつかんでいた彼女の腕が、
力なく、だらりと垂れ下がった。

317 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:52:42 ID:9wN2kVL.0
「お疲れさま、くるう。よくがんばりましたね……」

やさしい声。あるいは泣いているのではないかと思うほどの。
力をなくした女性を、先ほどよりも強く、力を込めて抱きしめている素直クール。
彼の恐れる素直家当主とはかけ離れた何者かが、そこに現れているような気がした。

「杉浦しぃの所在は未だ掴めていないそうですね」

背を向けたまま、彼に話しかける素直クール。
いつもどおりの無機質な響き、厳然とした威圧感を放っている。
けれど彼は、以前ほど素直クールを恐れていない自分に気がついた。

「素直クール、お願いがあります。……妻の罪を、赦してはくださいませんか」

「……何を言い出すのですか?」

「虫のいい願いであることは承知しています。承知した上で請願します。
 妻を赦して頂けませんか。……白状します。私は妻の罪を肩代わりするつもりでここに来ました。
 ここ――旧閉鎖棟に閉じこめられる覚悟で。
 けれどそれでは意味がないと気づいたのです」

力を失い抱かれるままの彼女と、他ならぬあなたによって。

318 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:53:25 ID:9wN2kVL.0
「失意に沈んだ妻にはいま、支える者が必要です。
 しかし家族と離縁してまで嫁いできた彼女に、父母の助勢は期待できない。
 彼女の支えになれるのは私しかいない。

 なればこそ、私は彼女から離れるわけにはいかないのです。
 ここに収容されるわけにはいかないのです。一時の罰であれば喜んで受けましょう。
 骨を砕けと言われれば砕きましょう。手足をもげと言われればもぎもしましょう。

 ですからどうか、彼女から私を取り上げないでくださいませんか。
 彼女の罪を、赦してはいただけませんか」

「あなた方が杉浦の謀反に荷担した以上、素直の主として
 その背信を見過ごすことはできません。罪は償ってもらいます」

「素直クール!」

「聞きなさい」

319 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:54:06 ID:9wN2kVL.0
素直クールは背を向けたまま、きっぱりとした声で彼の言葉を遮った。
そして胸の中の女性を、そよりと一撫でした。

「……私たち素直で経営支援を行っている孤児院があります。
 そこに、倉田という姓の女の子がいます」

素直クールが、動かなくなった女性を横にした。
その目を閉じさせ、しばらくの間そのまま固まっていたが、
やがてその枯れ木の身体を直立させ、彼の方へ振り返った。

その顔は、彼のよく知る素直クールの、それそのものだった。

「内藤ホライゾン、及び内藤ツンに命じます。
 あなた方はその子を引き取り、内藤の子として育てなさい。
 その子の名は――」


.

320 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:54:53 ID:9wN2kVL.0
     《 四 》



水中。キュートはもがく。息ができない。酸素を求めて、身体をばたつかせる。
が、できない。神のごとき絶対的な力で押さえつけられたキュートは、
自由からなる一切の権利と尊厳と人間性とを剥奪されている。

死ぬだろうと思う。
なぜなら、あいつが殺そうとしているから。
ママ<くるう>が私を殺そうとしているから。


渡すものか!
渡すものか!
お前などに、渡すものか!
返せ、返せ、返せ!
あの人を帰せ!
吐け、吐け、吐き出せ!
吐き出せ!


水上から響くママの声はハウリングして、
多層的に耳の奥の脳と直結した器官を浸食する。
目の裏側と鼻のつけねと喉の奥が針で刺されたように痛む。

321 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:55:44 ID:9wN2kVL.0
耳障りだ。本当に耳障りな声だ。
キュートがそう思っていると、声は物理的な質量をかたどり
無数のあぶくを伴って水中へと沈んできた。

それは、キュートの腿にまで到達した。鮮血の帯が水の波を泳いだ。
だが、その帯も切断される。それが再び、水中へと振り下ろされたのだ。
何度も振り下ろされるそれは、キュートの肉を削ぐそれは、
包丁の形をしていた。キュートのよく知る形をしていた。

私は死ぬのだ。
ママ<くるう>に殺されるのだ。
胸を開かれ、無惨な死体となり果てるのだ。
そうして私は、永遠にパパ<モナー>のキュートになるのだ。

そしてついに、その時が来た。
包丁が、キュートの胸へと正確に向かってきた。

キュートは目をつむった。

322 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:56:26 ID:9wN2kVL.0


――死ななかった。
キュートは生きていた。
包丁は、キュートの元へは届かず、鈍い光の軌跡をその水上できらめかせていた。

水上で、男女がもみ合っていた。
女を取り押さえようとする男に対し、女は包丁を振り回し暴れていた。
男の手が、女の手を押さえる。包丁が落下する。

中空を落下する。女が自由な手を伸ばした。
とっさの反応。それは反射的で、勢いのある動作だった。

吐き出したあぶくで視界がモザイクになる。
あぶくのひとつひとつに、赤色が映る。
那由他のあぶくのそのすべてに、男から吹き出る赤色(せきしょく)がきらきらと輝く。

キュートを押さえる抵抗は、もはや雲散していた。
キュートは水面へ上がる。眼下に映るのは、パパの死骸と、ママの抜け殻。
返り血にまみれた白痴のくるう。

323 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:57:07 ID:9wN2kVL.0



憎い。
憎い、憎い。
憎い、憎い。憎い!
パパを奪ったくるうが憎い!


死体のモナーと、呆けたくるうと、憎悪するキュート。
その三位一体が形成するトライアングルを、キュートは眺めていた。
憎い、憎いと猛りながら、憎い、憎いと呪いながら――


――そのほほがゆるむのを、キュートは抑えられなかった。

324 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:57:52 ID:9wN2kVL.0
私はくるうが憎い。
私はくるうが憎い。
私はくるうが憎い。

笑い声が漏れる。

私はくるうが憎い!
私はくるうが憎い!
私はくるうがちゃんと憎い!

笑いながらキュートは、舌の上で転がしていた物体を、一息に咽下した。

くるうから奪った結婚指輪を。

325 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:58:33 ID:9wN2kVL.0
キュートは水中へ沈められた。神のごとき力でキュートは拘束される。
耳障りな声が質量を成して、キュートに襲いかかる。死ぬと思う。
殺されると思う。永遠にパパのものになれると思う。

その願いは叶わず、包丁は水上で鈍い光の軌跡を描き、
もみあう男と女はそれを取り合い、那由他のあぶくに鮮血のその瞬間が映じる。
キュートは水面へ上り、肉体と魂の骸を見下ろす。

その三竦みの光景を、キュートは見る。憎しみの愉悦を抱いて。
憎み、笑い、そして咽下する。くるうの結婚指輪を。
それが合図となり、キュートは水中へと引きずり込まれる。
殺されかけ、そして、もっとも大切なものを殺される。

無窮に廻る殺意の円環。憎む者を、憎むこと。
その心地良さ。キュートはもう永遠に、永遠に、ここから永遠に、
永遠に、抜け出るつもりはなかった。永遠に、永遠に、幼いまま、
永遠に、永遠に、くるうを呪い続け、永遠に、永遠に、永遠を、甘受するつもりだった。
そしてまた、永遠のキュートは水中へ沈む。

326 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 18:59:18 ID:9wN2kVL.0


  『本当にこのままでいいの?』

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327 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:00:05 ID:9wN2kVL.0
永遠の外から、声をかけられた。
それはキュートと共に水中に沈み、水のゆらぎにその姿を波打たせている。
それは影だった。影の子供。いつか見た夢の旅人。

「このままでいい。このままがいい」

キュートは腕を振ることで水のゆらぎを強め、影の形を歪める。
影はかき消えた。と同時、キュートの背後にその姿を象(かたど)る。
背後に向かって腕を振る。影は消え、再び現れた。

「邪魔しないで」

『ならそう望めばいい。ぼくはあなたの望みに従っているだけだから』

「そんなことない」

『あなたは心の底から、この世界を望んでいるわけではないよ』

「違う。これが私の望み。幼いままでいられる唯一の世界。
 一切の成長はなく、繰り返される今日を憎み続けるだけの安楽な呪い。
 あの人も――ハインも、それを望んでいた。他に大切なものなんて、ない」

328 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:00:45 ID:9wN2kVL.0
『本当に?』

「本当に」

『一切?』

「いい加減にしろ」

『大切な人はいない?』

「黙れ」

『きみを呼ぶあの声も?』

329 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:01:30 ID:9wN2kVL.0




























  
                                                    ――キュート!

330 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:02:23 ID:9wN2kVL.0
水中に、亀裂が走った。

『幼いあなたが受け入れるには、辛すぎる出来事だったかもしれない』

やめろ。

『けれどもう、あの時とは違う』

やめてください。

『幼年期に囚われる日は終わったんだ』

私に見せないでください。

『さあ、一緒に見に行こう』

――真実を。

331 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:03:04 ID:9wN2kVL.0



父、モナーは家に寄りつかない人だった。
たまに帰宅してもいつも忙しそうで、用事を済ませたら
すぐまた仕事に戻る、そんな生活を送っていた。

テレビに関わる仕事をしていたそうだが、どんな役職で、
どんな役割を担当しているのかは知らない。父と話をする機会などなかったから。
キュートは、父が好きな食べ物すら知らなかった。

一度だけ、父は家に忘れ物をしたことがある。
番組で使う備品だったのかもしれない。慌てた様子で家中を探し回っていた。
けれど結局見つけることができず、父は会社に戻っていった。

見つかるはずがないのだ。
なぜならその忘れ物は、キュートがこっそり拝借していたのだから。
幼いキュートには重たい文庫本。『幼年期の終わり』。

キュートはこの本を肌身離さず持ち続けた。内容はわからない。
まだひらがなも危ういキュートには、とても読めるものではなかった。
それでも構わなかった。この本は、ほとんど唯一の父とのつながり。
重要なのは、それだけだった。

332 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:03:45 ID:9wN2kVL.0
キュートとモナーとの関係は、このように希薄なものだった。
それ故にキュートは、幼年期の関係性の、そのほとんどを母に依存していた。

母、くるうは父とは対照的に、いつも家にいた。
友人と呼べる人はいないらしく、近所づきあいも皆無だった。
有り余る時間を彼女がどう消費していたのか、キュートはよく覚えていなかった。

キュートの為に使っていた、というわけでもない。
ただの一度も、遊んでもらったことがないくらいなのだから。
そもそも彼女に抱きしめてもらった記憶が、キュートにはなかった。

育児放棄というわけではない、と思う。
食事は用意してくれる。着替えも手伝ってくれる。
キュートから呼びかければ、きちんと応えてくれる。
生活に必要な面倒は、きちんと見てくれる。

だが、それだけ。

共に過ごす時間は長くとも、彼女がキュートに関わるのは極短時間に過ぎなかった。
彼女の態度からは、キュートとの必要以上の接触を避けようとする節が――
むしろ、キュートを恐れるような素振りすら、見られた。

朝、目が覚めたとき。
自分以外だれもいない部屋の中で、私は母に捨てられたのではないかと毎日――
そう、毎日そう思っていた。

333 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:04:26 ID:9wN2kVL.0
だからキュートは、あの手この手で母の気を引こうとした。
例え母に嫌われていようとも、それでも、それでもキュートは、
母に自分を見てほしかった。

叱ってほしかった。褒めてほしかった。撫でてほしかった。
笑ってほしかった。抱きしめてほしかった。

抱きしめてもらえるように、笑ってもらえるように、撫でてもらえるように、
褒めてもらえるように、キュートは試行錯誤を繰り返した。

その悉くが、失敗に終わった。

キュートは、最後の手段に出た。
それは母の入浴中に行われた。
いつも身につけているそれを、入浴中だけは外すと知っていたから。

手触りの良い小箱に保管されたそれを取り出し、
浴室のドアを音が鳴る勢いで開け、キュートは浴槽に浸かる彼女の目の前に立った。
そしてそれ――母が夫モナーと交わした結婚指輪を、見せつけるように呑み込んだ。

次の瞬間、キュートの身体は水中に引きずり込まれていた。
大量のあぶくが口から吹き出る。酸素を求め、反射的に手足をばたつかせる。
しかしとてつもない力により、キュートは水中に拘束される。

334 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:05:11 ID:9wN2kVL.0
吐け!
吐け!
吐きだせ!


分厚い水の壁を越え、母の叫びが聞こえてくる。
憎悪と殺意にまみれた叫び。そして母は、
どこからともなくキュートの胸を切開するための刃物を取り出し――



















     『違うよ』

335 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:05:58 ID:9wN2kVL.0
母の現像が消えた。
キュートを包んでいた高速は解かれ、
母のいたはずの場所から、影の子供がこちらを見ていた。

『それは違うよ』

違くない。

『彼女が本当は何を訴えていたのか』

「吐け」

違くないんだよ。

『彼女が本当は何を思っていたのか』

「吐け」

母は私を殺そうとしたんだ。

『一緒に聞こう』

「吐いて」

それだけが事実なんだ。

『真実を』

「吐いてよぉ」

真実なんて知りたくない。

『彼女の言葉を』

336 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:06:56 ID:9wN2kVL.0



「“キュートが死んじゃうよぉ!”」


.

337 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:07:39 ID:9wN2kVL.0
指輪を呑み込んだ直後、キュートは激しく咳き込みだした。
肌の色は白く変じ、唇からは血の気が失せた。
のどの奥は炎が通過したように、ひどい熱に萎縮した。

水中へ引きずり込まれたのはそのすぐ後だ。
母は抱きしめるような格好でキュートを引き寄せ、浴槽の湯船に沈めた。
キュートが暴ることを許さずしっかと固定し、
その上で、彼女は人差し指をキュートの喉奥につき込んだ。

キュートの口から、指輪がこぼれた。

胸を抑える。いや、もはや理解している。
こんな行為に意味はなかったのだと。
“パパとの結婚指輪が、こんなところにあるはずはなかったのだと”。

338 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:08:22 ID:9wN2kVL.0
やがて母の胸から解放された幼いキュートは、
しかし自身の回復を喜ぶことはなく、初めて味わう恐怖と苦しさの複合感情に混乱し、
そしてその混乱は、キュートに安易な結論を選択させた。


死んでやる!


私はいらない子なんだ。だからこんなに苦しむんだ。
だからママは私を苦しめるんだ。私を無視するんだ。
ママは私がいらないんだ。嫌いなんだ。
だったらいなくなってやる。死んでやる。

危ないから入ってはいけないと言われていた台所へ、
キュートは迷うことなく駆け込んでいった。
そこにはキュートの命に容易くトドメを差せる道具、包丁が鈍い光を放っている。

つかむ。
想定外の軽さ。
よろめく。
振りかぶり。
逆(さか)に持ち直し。
再び構えて。
目をつむり。
振り上げて――。

339 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:09:03 ID:9wN2kVL.0
「バカ!」

身体が硬直する。
玄関から、声が聞こえてきた。
手に何か、白い箱を持ったパパが立っていた。
パパが近づいてくる。キュートは後じさる。
パパは構わずやってくる。

キュートは、キュートは――絶叫した。

「来ないでぇ!!」

死ななきゃなんだ!
死ななきゃなんだ!
死ななきゃなんだ!

キュートは包丁をめちゃくちゃに振り回した。
早く自分を刺せばいい、などと考える余裕はなく、
混乱した感情がそのまま行動に表れていた。

だがそれも、すぐに止められた。
パパの手が、包丁を振り回すキュートの腕を取った。
キュートの手から、包丁がこぼれた。

340 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:09:43 ID:9wN2kVL.0
包丁が、宙空を落下する。
それは、反射的な行動だった。
キュートは自由な腕を、勢いよく伸ばした。
落下した包丁をつかむため。
その先に、何があるかなど考えず。
結果的に、キュートは包丁をつかむことに成功した。
しかしその包丁が突き刺さったのは。
深々と突き刺さったのは。
キュートにではなく。


パパの。
モナーの。
首に。
だった。

341 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:10:26 ID:9wN2kVL.0
パパの手から、白い箱が落下した。
箱は衝撃に耐えられず崩壊し、その中に守っていたものを晒した。
そこにはタルトがあった。いちごのタルト。薄いチョコの板が乗ったいちごのタルト。

砕けてしまったチョコの板。そこには、何か、文字が書かれていた。
割れた文字には、こう、書かれていた。

 きゅーちゃん おたんじょうび おめでとう

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342 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:11:06 ID:9wN2kVL.0
止まらない。
止まらないよぉ。
血が止まらないよぉ。

モナーは仰向けに倒れ、白目を向いていた。
包丁の突き刺さった喉からは、赤黒い血液がとめどなくあふれ出している。

キュートの手は真っ赤に染まっていた。
血が流れるのを止めようと、お湯に塗れた『幼年期の終わり』を開いて、
傷口に押しつけた。モナーの口から血があふれた。
びくりと痙攣し、その直後、父は全く動かなくなった。

『幼年期の終わり』が落下した。
血を吸った部分が重みに耐えきれず、ひとかたまりとなり、無事な部分と分かれた。
開いたページには、第三部と書かれていた。
それもやがて、自重のままに倒れ、『幼年期の終わり』は閉じた。

「キュートじゃない」

裸の母が、立っていた。

「キュートじゃない」

母が、包丁を抜いた。

「この人を殺したのは」

吹き出た血が、母にかかった。

「殺したのは――」

343 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/11/20(木) 19:11:58 ID:9wN2kVL.0


もうやめて。

『あなたは記憶を捏造した。母の言葉を頼りに、
 自身の罪から目を背けられるような形へ。その基底となる言葉こそが――』


――殺したのは、私<くるう>。

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