o川* ー )o幼年期が終わるようです

《 二 》

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128 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:04:33 ID:S8s5N.lo0
          ※



時間は限られている。できることも限られている。
医療機関であれば通常整っているはずの機材も、ここには置かれていない。

運搬する手間も惜しいが、そもそもにおいてキュートはそれらの扱いをまだ習っていない。
一から覚えていく余裕などあるはずもない。
いま現在身についている知識を総動員する以外、方法はない。ないのである。

素直クールはお前さんに何の期待もしていない、か。
長岡の言葉。状況を理解すればするほど、納得してしまう。

嘆いていても仕方ないか。

精神病の治療の基本は、今も昔も心理療法と投薬である。
その際患者の病状を尋ねるだけでなく、信頼関係を築けるように努力することが大切だ。

隠し事をなくすことで症状をより正確に理解する為であったり、
患者自身が気づかなかった症状を引き出す狙いなども、もちろんある。
しかしそれだけではない。

二十世紀後半、精神病を脳科学の分野として扱うべきだとし、
治療に必要なのは投薬のみであるという主張が起こった。
そして彼らは実際に投薬のみでの治療を行い、自らの主張を証明する成果を現実に叩き出した。

一面的には。

129 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:06:00 ID:S8s5N.lo0
問題はその後に起こる。
彼らの患者は回復期間も短かったが、再発率も非常に高かったのである。
回復と再発を繰り返すうち、初期の段階より酷い症状を訴えだした患者も少なくなかったらしい。

といって、薬を一切使用しない治療が良い結果をもたらすわけでもない。
確かに心理療法を介して治癒した患者は、再発率が低い。
しかし投薬を行わない治療は、概して治療期間が長引く傾向にある。

いつまで経っても回復する兆しの感じられない治療行為に嫌気が差し、
患者が自主的に治療を終わらせてしまう、という事例も珍しいものではない。

これらのことから、精神医療においては心理療法と薬の併用が、
効率と再発率を鑑みるにベターである、というのが通説となっている。

投薬に不安感を示す患者は多い。
信頼関係を築く理由には、この不安感を払拭するためという意味合いも少なからず含まれている。
薬は怖いけれど先生が勧めるなら、という理屈である。

130 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:20 ID:S8s5N.lo0
だがそれは、意志疎通の可能な患者の場合に限られる。
現実には意識不明瞭で言語や言語外でのコミュニケーションを取るのが困難な患者もいる。
このような場合は、患者の代わりにその家族から許可を得なければならない。

病気全般にいえることだが、闘病生活には家族の理解と協力が必要不可欠である。
殊、精神疾患においては。

近年は統合失調症の世界的急増により、これらの病気に対して認識を新たにしている人もいる。
しかしそれでも、偏見を持って接している者は少なくない。
例えば病気を病気と認めず、性格の問題として矯正しようとする、など。

家族の中にこのような人物がいると、症状が悪化してしまう危険性が極めて高くなる。
そのため医師によっては、患者への療法と同じ程度の力を入れて、その家族と話し合う人もいる。

しかし、杉浦しぃ。

意思の疎通は不可能。家族の存在も確認できない。
仮にいたとして、こんな所に放り込まれているくらいだ、
協力を求められる状況にはないだろう。
ではどうするか。病理の定かでない患者に、薬物投与などできようはずもない。

ショック療法や電気けいれん療法、磁気刺激療法などは知っているが、
後者ふたつは専用の機器が必要な上専門の知識がなければ非常に危険である。
前者のショック療法も、元々意識がないのだからショックも何もないだろう。

131 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:08:36 ID:S8s5N.lo0
そこでキュートが採用したのは、触診とマッサージの併用である。
もっとも原始的にして今なお活用され続けているこの触診という方法は、
熟達した医師が行えば最新機器よりも正確に患者の状態を見抜けてしまえるものだという。

むろんキュートにそこまでの腕があるはずもないが、腫れや脈拍の確認程度なら行える。
毎日と言わず一時間、十分ごとに測定し続ければ、
何かしらの変化を察知することも可能かもしれない。

そして、マッサージ。
うつ病の患者に関して、このような報告がある。
日頃運動不足である患者を簡単な体操に参加させたところ、その症状が緩和したというもの。

また継続して身体を動かしている人と動かしていない人とを比較すると、
後者のうつ病発症率は前者の五倍以上にも上るというデータもある。

当たり前のようで忘れがちなことだが、適度な運動は健康に良い結果をもたらす。
脳を活発化させ、認知機能を高める効果があることも証明されている。

132 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:10:42 ID:S8s5N.lo0
杉浦しぃが一年以上あの場所で眠り続けているというジョルジュの言葉が真実であるなら、
これは運動不足などという生易しい言い方で表すべきものではない。

通常約二ヶ月程度寝たきりになっただけで、
人の筋量は六○から七○パーセントにまで萎縮してしまう。
筋肉だけではない。骨格や、中枢神経組織にまで甚大な悪影響をもたらす。

回復させるには、負荷を与えることだ。
つまり身体を動かすこと。リハビリテーションの実行である。

しかし現実には、自力での行動が困難な患者も存在する。
その場合どうするかというと、外部からの刺激、
すなわちマッサージを行うことで、強制的な負荷を与えるのである。

正直マッサージの経験など、幼い頃に父と母に頼まれて行った
スキンシップの延長線上のものくらいしかなく、どうしても不安は残る。
しかしキュートには、これ以上の方法が思いつかなかった。

だいじょうぶ。
これは確かな医療行為として、その効果を保証されている方法だ。
だからだいじょうぶ。

それに、お父さんはちゃんと気持ちいいって言ってくれていたし。

133 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:11:58 ID:S8s5N.lo0
自己暗示に決意を固め、キュートは行動する。
迷宮の最奥に座す彼、杉浦しぃに触れる。

その瞬間をキュートは躊躇い、意を決するまでに十分以上掛かったが、
接触の結果はあっさりと、彼のきめ細やかな肌の弾力が跳ね返ってきた以外に、
特筆すべきことは何もなかった。

簡易的に着せられた病衣を脱がす。
彼の身体は、キュートの想像していた通りでもあったし、いくらか想像から外れてもいた。

筋肉はやはり細い。目覚めても、しばらくはリハビリが必要になるだろう。
しかし、一年間眠り通しだったにしては萎縮が押さえられている印象を受ける。
それに骨や皮で角張っているわけでもなく、ちゃんと皮下脂肪も蓄えられているようだ。

何にせよ、やることは変わらない。
脈拍を測り、体温をみる。
おおまかに腫れや傷、しこりがないかも調べるが、特別異常は見あたらない。

134 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:13:35 ID:S8s5N.lo0
マッサージに移る。全身をくまなく、丹念にもみほぐす。
特に人体においてもっとも筋肉量の多い臀部から太股、下腿にかけては重点的に。

身体を持ち上げてストレッチの真似事もさあせようとする。
が、キュートの小さな背丈では、小柄とはいえ男性である杉浦しぃを支えることは難しかった。

考えた末キュートは、管理室から椅子をひとつ拝借、それに座らせた。
座らせるために抱え上げるのも一苦労ではあったが、この程度ならまだなんとかなる。

肩の関節、膝の関節、股関節などが凝り固まらないよう、
時間を掛けてゆっくりとほぐしていく。
一通りの運動を終えたら、再び触診をする。そしてひとまず休ませる。

休ませている間に、カルテをまとめる。
どんな些細なことでも、逃さずに記載する。
そうしてまとめている最中に、座らせっぱなしは身体に良くないのではないかと思い至る。

キュートは仮眠室から毛布を引っ張り、眠っているしぃを抱えその上で横にさせた。
そしてもう一式引っ張り出した分を横に並べ、自分の寝床とした。
何かあればすぐ気づけるように。地上から持ってきた唯一の荷物、『幼年期の終わり』を傍らに置いて。

135 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:15:14 ID:S8s5N.lo0









そうして、一週間が経過した。

――成果はなかった。


.

136 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:15:57 ID:S8s5N.lo0
          ※



何度通っても慣れないな。
薄暗くかつ複雑な旧閉鎖棟の廊下を歩きながら、デミタスはため息をついた。
その手にはプラスチックのおぼん、その上には味付けの薄い病院食が乗っている。

なぜデミタスがこんなことをしているのかというと、
昼夜を問わず杉浦しぃを診ている内藤キュートの世話を任ぜられたからだ。

機密性の高いこの仕事に一般の看護士を寄越すことはできないという理由で、
デミタスに白羽の矢が立ったわけである。

デミタスとしてはまったく乗り気ではなかったが、
モララーからの指令となれば断るわけにもいかない。
渋々引き受け、こうして給仕夫の真似事をしている。

(´・_ゝ・`)「ええと、お待たせしましたー……」

o川*゚ぺ)o「ありがとうございます」
  _
( ゚∀゚)「どうも」

137 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:17:05 ID:S8s5N.lo0
管理室に到着したデミタスを、キュートと長岡は一瞥もせずに迎えた。
長岡は分厚い医術書に、キュートは睨むような目つきでカルテに何か書き込んでいた。
その眼の下には、濃い隈ができている。

(´・_ゝ・`)「ええと、内藤さんの分だけでよかったんですよね?」
  _
( ゚∀゚)「それで結構です。私は外で食べますから」

きっぱりとした長岡の口調。
空気が重い。ここが地下だから、という理由だけではきっとないだろう。
デミタスは「それでは」と簡単な挨拶を述べ、足早にその場を去ろうとした。
  _
( ゚∀゚)「お待ちくださいデミタス先生。ちょうどコーヒーが沸いたところです。一服していってはいかがですか」

(´・_ゝ・`)「ですが、ご迷惑に……」
  _
( ゚∀゚)「気にしませんよ」

デミタスはちらりとキュートの様子をうかがった。
視線と片手はカルテの上に、食事を始めている。
栄養補給の為だけといった、ぞんざいな食べ方だ。

(´・_ゝ・`)「そうですか。それでは失礼して……」

本当は一刻も早く帰りたかったが、折角の好意を無碍にするのもつたない。
それに彼は、ハインの兄だ。悪い印象を与えたくはなかった。
だがデミタスは、すぐに後悔することになる。

138 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:18:05 ID:S8s5N.lo0
何て居心地の悪い……。

自分から誘っておきながら長岡は、
まるでデミタスなど存在しないもののように自分のコーヒーを傾けていた。

キュートは言うまでもない。
食器とスプーンが重なる音と、液体をすする音だけが空間を支配している。
静寂がつらい。

(;´・_ゝ・`)「そ、そういえば、ここが設立された本当の理由って話、ご存じですか?」

沈黙に耐えきれず、デミタスは自分から口を開いた。
  _
( ゚∀゚)「知りませんが、どんな話なのですか?」

(´・_ゝ・`)「ええとですね、話半分に聞いてほしいのですが、こんな内容です。
      時の日本では、人の持つ気は人から人へ移っていくものだと、大真面目に考えていたそうです。

      そしてその念が強すぎる場合、死後もなんらかの影響を周囲に与えてしまうと。
      それを人々は祟り、あるいは呪いと呼んだと」

139 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:18:57 ID:S8s5N.lo0
視界の端で、キュートが食事の手を止めたのが見えた。
デミタスは気にせず続ける。

(´・_ゝ・`)「このような次第ですから、気の触れた人物とは悪い気を周囲に伝播する、
      非常に厄介なものとして扱われていたそうです。
      ですからその厄介者を隔離する場所を作ろうとしたのは、
      ある意味自然な流れだったのかもしれません。

      そうです。ここ相真も、かつては治すためではなく隔離するための施設だったとか。
      死後も呪いを外へまき散らすことがないよう、複雑な迷路状にする周到さで。
      だから時々、出るそうなんですよ……」
  _
( ゚∀゚)「出るとは?」

(´・_ゝ・`)「幽霊っていうと陳腐ですけどね。強い念を残した気の触れた何かが、
      形を伴って現れるとか。案外先生方も、すでにそういう体験をしていらっしゃったりして!
      なんてね、ははは……」

140 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:19:50 ID:S8s5N.lo0
o川* へ )o「ごちそうさまでした!」

テーブルを強く叩く音とともに、キュートが立ち上がった。
そしてそのまま、部屋から出ていく。
食器の中には、食べかけの料理がまだまだ残っていた。
  _
( ゚∀゚)「大変おもしろい話でしたよ、私にはね」

長岡の言葉で、デミタスは調子に乗りすぎてしまったことを悟った。
ここで寝泊まりしている者からすれば、真偽がどうであれ気分の良い話でないのは間違いない。
まして相手は二十歳前の不安定な女の子、配慮が足りなかったにも程がある。

正直彼女が自分とまったく無関係な女の子だったなら、
多少の罪悪感はあれど対して気に留めることもなかったと思う。

しかし、今は違う。
この幼き内藤キュートの行動如何で、素直家の進退――すなわち相真の行方が左右されるのである。
決して大げさではなく。

もし自分のこの軽率な世間話が原因で、キュートがしぃへの治療を辞めてしまったら――。
考え終えるより先に、デミタスは走り出していた。


.

141 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:21:18 ID:S8s5N.lo0


o川*゚ぺ)o「え、何ですか?」

果たしてキュートは、杉浦しぃの座る奥の部屋にいた。
必死の形相で駆けてきたデミタスに対し、少々面食らっているようだった。

(;´・_ゝ・`)「いや、さっきのことで気分悪くしたんじゃないかと思って……」

o川*゚ぺ)o「先生の方がよっぽど気分悪そうですけど……」

息を整えることもなく話し出したデミタスを、キュートはいぶかしむように見ている。
全速力で走ったのはいつぶりか、汗が吹き出て止まらない。
慌てていたせいか何度も道を間違え迷いに迷ったことも、疲労感に拍車をかけていた。

デミタスは息も切れ切れ、事情を説明し失言だったと謝罪する。
キュートは得心いったようだったが、その表情は変わらず厳しい。

o川*゚ぺ)o「ああ、そんなことですか。別に気にしていません。
      むしろ感謝しているくらいですから」

(´・_ゝ・`)「感謝?」

142 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:22:13 ID:S8s5N.lo0
そこでデミタスは初めて、彼女が手に箒と雑巾を持っていることに気づいた。
よく見れば、雑多な掃除用具がいくつも運び込まれている。

o川*゚ぺ)o「ここの空気が淀んでいることを気づかせてもらった、ということです。
      せめて彼の周囲くらいは衛生的にしようと。
      染み着いたバカげた呪いも近寄れなくなる程度には」

だから別に気にしていませんと、キュートはもう一度そう繰り返してから、
ぺこりと頭を下げた。その外見に見合った、小学生みたいなお辞儀の仕方だった。

何だ、怒ったわけではなかったのか。

デミタスは安堵の息を漏らしながらも、
やはりどこか残る不安を払拭するため、最後にもう一度確認することにした。

(´・_ゝ・`)「それじゃここにいるのが嫌になったとか、
      辞めたくなったとかってことはないんだね?」

o川* へ )o「そんな心配をされてたんですか?」

143 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:23:04 ID:S8s5N.lo0
キュートの声色が、にわかに剣呑な様子を帯び始める。
あ、今度こそ地雷を踏んでしまったっぽい。

o川#゚ぺ)o「ご心配されなくても、無責任に途中で投げ出したりはしませんから。
      帰ってそうお伝えください!」

キュートの剣幕に押され、叩き出されるような格好でデミタスはその場を後にした。
まったく、今時の若い子はむずかしいな。

でも、まあ、辞めるつもりはないとキュートも言っていたし、
その言質が取れたのなら役目は果たせたといっても差し支えないだろう。
デミタスは素直に退散する準備に入る。

しかし通路を歩いている途中、徐々に心配になってくる。
あったことをそのまま報告して、モララーはどう思うだろうか。

咎められることはないにしても、小言のひとつやふたつ、
失望混じりに吐き出されるくらいはあってもおかしくない。

144 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:24:07 ID:S8s5N.lo0
やっぱり、機嫌くらい取っておいた方がいいのかなぁ。
でも、何をしたら彼女は喜ぶのか――考えているうち、いつの間にか管理室に到着していた。

管理室では、長岡がいまだに医術書と格闘している。
テーブルにはキュートの残した料理がそのまま残っており、
食べかすが少し、おぼんの中に散っていた。

そこでふと、閃く。

(´・_ゝ・`)「長岡先生、バケツか何かありませんか?」


.

145 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:24:57 ID:S8s5N.lo0
          ※



こんなことに意味があるのだろうか。
薄暗くくすんだ壁を雑巾で拭きながら、
頭に浮かんでくる諦めの言葉をキュートは何度も何度も拭い落とした。
しかしそれは、無限にこぼれる湧き水のようにキュートの努力を無為に流した。

しぃを見る。いまは椅子に座っている。いや、座らせている。
やわらかなほほえみは一週間前と何も変わらない。
この一週間、期日が近づいたこと以外に変わったことなど、何ひとつない。
何ひとつ。

キュートは汚れた雑巾を握りつぶした。
壁から離れ、杉浦しぃの前に立った。
そして、安らかに眠るしぃに向かって、丸めた雑巾を投げつけた。

o川* へ )o「あなたは、何なの」

雑巾はしぃの身体の表面をするすると滑り、
椅子の縁に引っかかりかけたが、結局重力に負けて落下した。

146 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:26:26 ID:S8s5N.lo0
しぃの病衣には雑巾の痕跡が付着している。
だが不思議なことに、しぃの身体には埃ひとつとして移っている様子はなかった。
神々しいまでの――あるいは禍々しい程の、不変。

キュートは倒れるようにして、しぃの胸に頭を押しつけた。
心臓の鼓動が、ちゃんと聞こえる。寸分違わず正確なリズムで刻まれる鼓動が。生が。

o川* へ )o「私、もうどうしたらいいか……」

こうしている間にも、時間は刻々と過ぎ去っていく。
精神科医への道も閉ざされつつある。そうなれば――。

しかし、何をすれば彼が目覚めるのか、
そもそも治すべき疾患がこの子にあるのか、キュートにはわからなくなっていた。

キュートが異常の根拠とした例の光景も、
初めてあったあの日以来どんなに触れようとも現れなかった。

いまではもう、確信を持ってあれを見たとさえ言えなくなっていた。
すべてはこの特異な空間に毒された自分が、思いこみから生み出した幻覚だったのではないかと。

147 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:27:31 ID:S8s5N.lo0
諦めろということなのか……?

違う、まだまだ時間はある。
何かまだ、手段はあるはずだ。
気がついていないだけで、突破口はあるはずだ。

でも――。

しぃの胸に顔をうずめたままキュートは、自分の胸を力任せにつかんだ。
気持ちが悪い。寝不足のせいかもしれない。
もしくは疲労のせいだろう。そうに決まっている。

ちがう。
わかっている。
これは、ちがう――。

キュートは振り返った。
足音が聞こえる。
認識すると同時、胸の重みが極度に増す。
足音は確実に、着実にこちらへ向かってきている。

148 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:28:27 ID:S8s5N.lo0
長岡だろうか。いや、長岡はこの一週間一度もここに来ていない。
いまさらになって協力してくるとも思えない。
では、誰が。キュートの脳裏に、一人の怪物の名が浮かぶ。

素直クール。

まさか、彼女が。
胸の肉がえぐり取れるくらいに、指が硬質化する。

入り口を凝視する。耳をそばだてる。胸が痛い。
力任せにつかんでいるからか、それ以外の何かが原因か。
そうしてキュートが自身と格闘している間も、足音は迫り、そして、止まった。

149 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:29:41 ID:S8s5N.lo0
(;´・_ゝ・`)「あ、あれ、もしかしてもう終わっちゃった?」

デミタスだった。
身体から急速に力が抜ける。ついで、安堵感とないまぜになった腹立ちがデミタスに向かう。
八つ当たりだとは理解しつつも、キュートは苛立ちのままにデミタスをにらんだ。

しかし、そんな些細な怒りはすぐさま吹き飛んだ。
キュートはデミタスの片手から目をそらせなくなっていた。

バケツを持っていた。
バケツの中には、なみなみとこぼれんばかりの液体がゆれていた。

デミタスが近づいてきた。
飛沫があがった。


――目があった。

150 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:31:11 ID:S8s5N.lo0
o川; Д )o「くるなぁ!!」

あいつだ!
あいつだ!
あいつだ!!
あいつ<ママ>が来た!!

キュートは悲鳴を上げ、逃げだそうとした。
だが、悲鳴をあげることも、逃げだすことも叶わなかった。

のどから胸にかけて、キュートの肉はどろどろと蝋のように溶けこぼれ、
腰から下は完全な液状と化していた。

それでもキュートはもがき、暴れ、散乱した掃除用具を手当たり次第に投げつけた。
箒の柄がバケツにあたった。
金のバケツが金切り声をあげ、その中身がにちゃりと流れ出た。

じりじりと這い寄ってくる。
違う。
あいつと私が結合しているのだ。
気づけば辺りが、あいつだった。そして、その中心には――

151 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:32:35 ID:S8s5N.lo0
手が、伸びた。

肉の役目を為さず溶けきった胸の中に、あいつの手が”浸入”してきた。
露出した臓器が圧迫されてぐにゃぐにゃとゆがむ。
あいつの手が、私の内部をまさぐってる。

いやだ……。

いやだ……いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ!

お前なんかに、お前なんかに、お前なんかに――お前なんかにぃ!

渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか
渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか渡すもんか!
――渡すもんかぁ!!

152 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:34:14 ID:S8s5N.lo0











                            キュート











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153 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:35:04 ID:S8s5N.lo0
重みが消えた。

キュートはいつの間にか噛みついていた何かから、その牙を離した。
白い布生地に、わずかな朱がにじむ。杉浦しぃの肩だった。
杉浦しぃの身体が、キュートに覆い被さっていた。

o川*゚ぺ)o「あ……」

しぃの手が、左手が、キュートの胸に重なっていた。
キュートはその手の上に、自分の手をさらに重ねた。

杉浦しぃは変わらず、ほほえみの寝顔を湛えていた。


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154 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:36:11 ID:S8s5N.lo0
          ※



( ・∀・)「そうですか、そんなことが……。報告ご苦労様です、デミタスくん。
       引き続き彼女を手伝ってあげてください」

ここは相真大学病院院長室。
平均的なサラリーマンの年収を軽く越える値段の調度品が、
院長モララーの趣味で山ほど並べられている部屋でもある。

そのモララーは、いまここで爪をやすりながらデミタスの報告を受けている。
デミタスは毎日ここへ通い、その日旧閉鎖棟で起こったことをモララーに報告していた。
といって、話す内容に変化などなかったのだが。

しかし、今日はちがう。
話の内容も違うが、それだけではない。

( ・∀・)「どうしました?」

モララーがいぶかしげな声をだした。
いつもなら報告を終えてすぐに帰るところ、
まるでその気配を見せずに立ち続けているデミタスを、怪訝に思ったのだろう。

155 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:37:57 ID:S8s5N.lo0
(´・_ゝ・`)「ひとつ、うかがってもよろしいですか」

デミタスが切り出した。
そうだ、今日は聞いておきたいことがある。知っておきたい疑念が。

( ・∀・)「何をです?」

(´・_ゝ・`)「杉浦しぃについてです。彼は、何なのですか」

モララーの手が止まった。
しかし構わず続ける。

(´・_ゝ・`)「内藤さんが落ち着いた後、私たちは彼の病衣を脱がせたんです。
      肩の傷を消毒しなければと思いましから。ですが――」

( ・∀・)「ですが、なんです?」

(´・_ゝ・`)「なかったんです、傷が。その痕もまったく。
      まるで噛まれた事実などなかったかのように、一切。
      それに内藤さんが落ち着いたときも、彼は、何というか、
      うまく言えないのですが……普通じゃ、なかったんです」

156 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:38:47 ID:S8s5N.lo0
( ・∀・)「普通じゃないとは、どういうことです」

デミタスはうまく言葉をまとめようと、目をつむって思考した。
だがそう経たないうちに、諦めたように首を横に振る。

(;´・_ゝ・`)「……すみません、うまく言葉にできないのです。
        ただ、彼が自主的に動いたとか、そういうことではありません。
       暴れた内藤さんの手が椅子の足に当たり、座っていた杉浦しぃが彼女に覆い被さる格好で落下した。

       その衝撃で、彼女は正気にもどった。事実はそれだけです。
        ……それだけのはずなのですが、何かがおかしいんです。何かが、普通じゃない……」

あの言いようの知れない違和感。率直にいって、デミタスは恐怖していた。
引き込まれそうになる自分に恐怖した。あの安らかな寝顔の杉浦しぃ。
その顔が一瞬、別の誰かと重なったように思えたのだ。
デミタスのよく知る、そして一生忘れることのできない、あの――。

( ・∀・)「仮に彼の事を知って、きみの仕事に何か変化がありますか?」

(´・_ゝ・`)「それは……」

モララーから問われたデミタスは、答えに窮する。
ない、かもしれない。もちろん細かな何かは変わるかもしれないが、
それが良い結果に通じる変化であるとは限らない。それはわかっている。
だが……。

157 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:40:08 ID:S8s5N.lo0
デミタスは、下がらなかった。
モララーは溜息をひとつ吐き、爪ヤスリを横に片づけた。

( ・∀・)「……ぼくもね、詳しくは知りません。
       ただ――ぼくの聞いた限りでは、彼はベトナムで見つかったそうです」

(´・_ゝ・`)「ベトナム? 確か彼は、素直に由来のある杉浦という
        家の子ではなかったでしょうか。それがなぜ、ベトナムに」

( ・∀・)「わかっているのは、杉浦がすでに没落していること。
       そして十年近く前に彼が海外へ送られたこと、それだけです。
       その後どういう経緯を辿ってベトナムについたのかはわかりませんが、
       自分の意志でなかったのは確かでしょうね」

(´・_ゝ・`)「というと?」

( ・∀・)「売られていたそうですよ、彼。人身売買で転々と。
       その最終地点がベトナムで、素直の情報網に引っかかり無事
       ――かどうかは分かりませんが、保護されたということです。
       ただ、そのベトナムで見つかった時のことなのですけどね――」

モララーはそこで一度話を区切ると、警戒するように周囲を見回した。
デミタスもつられて首をひねる。誰もいないことを確認し、モララーは再び話し出す。

158 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:41:15 ID:S8s5N.lo0
( ・∀・)「杉浦しぃの身柄を預かっていたのは、
      ベトナムの新興宗教団体のアジトだったそうです。

      儀式と称して歌って踊り、強制的に起こした過呼吸による変性意識を
      宇宙の神性と結びつける、よくある題目のやつです。お定まりの幻覚剤も用いられていたとか。

      そこで彼、杉浦しぃは神との触媒――あるいは神そのものとして崇められていたそうです。
      むろん儀式にも用いられていたようですが――事故があったのか、意図的なのか、
      彼が発見された時、彼の周囲には昏睡状態に陥った信者の山が、骸のように散乱していました」

デミタスは想像する。何人もの人間が阿鼻叫喚の苦しみにのたうっているその中心で、
あのほほえみを湛え座す杉浦しぃの姿を。変わらず静止するその姿を。

( ・∀・)「そこで何が行われたのかはわかりません。ですが参加していた信者のそのすべてが、
      いまも意識不明であることは間違いないそうです。
      それも眠るような――いえ、時間が凍結したような状態で」

(´・_ゝ・`)「それって……」

デミタスは瞬間的に思い浮かんだ言葉を口にしようとした。
が、それは突き出されたモララーの手によって遮られた。

( ・∀・)「私が知っているのは以上です。もういいでしょう、行きなさい」

159 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:43:01 ID:S8s5N.lo0
そう言い放ったモララーの態度には、確かな拒絶の意思が表れていた。
まだまだ聞きたいこと、むしろ新たに浮かんだ疑念がくすぶってもいた。

だがこれ以上粘っても、モララーは頑として口を割らないだろう。
デミタスは頭を下げ、院長室から出て行こうとする。

( ・∀・)「“彼”がね、早めの成果を欲しがっているようなんだ」

振り返る。退室しようとしたデミタスを引き留めたのは、
誰あろう追い出そうとしたモララー本人であった。
モララーは整えられた両手の指を、斜線上に交差させている。

(´・_ゝ・`)「彼、とは……?」

( ・∀・)「懇意にさせてもらっている政治家さ。
      クレンネス導入の際には、ずいぶん力添えしてもらった。

      その彼が、早めの成果を求めている。
      どうも彼の政敵が周辺を嗅ぎ回っているようなんだ。
      クレンネス慎重論派は根強く残っているからね。

      あいつらを黙らせるには目に見える成果を出して、
      世論を味方につけるしかないとはぼくも思う。
      だが現実、素直女史が関わっている間は無理だろう?」

モララーは明後日の方を向いて、決してデミタスを見ようとはしなかった。
話し方もどこか、独白めいている。

160 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:44:24 ID:S8s5N.lo0
( ・∀・)「治療期間、早められないものかな。
      素直女史も納得せざるを得ない形で。
      例えば――内藤さんは、だいぶ参っている様子だったそうだね?」

これ以上、ここにいてはいけない気がしてくる。
何か、現在進行形で厄介ごとに巻き込まれているような、そんな気分に。
デミタスは無意識のうちに後ずさっていた。

( ・∀・)「きみはさっき、話を渋るぼくから根ほり葉ほり聞きだしてきたよね?」

硬直する。釘を差された。デミタスが気づくはるか前に、退路は断たれていたのだ。
おそらくはこの院長室に足を――いや、この相真に迎え入れられたその時から、すでに。

(´・_ゝ・`)「……その彼という人物が、どうにかしろと命じたんですか?」

デミタスの言葉に、モララーがくつくつと含み笑いをこぼした。
優雅な、少々芝居じみた大げさな動作で。

( ・∀・)「それは違うよデミタスくん。彼らは直接指示なんて下さない。
      周りの人間が慮って、勝手に行動するだけさ。
      責任ある立場の人間が簡単にしっぽをつかまれるようでは、
      世の中が回らなくなるからね。だから彼らは、願望だけを口にするんだ」

モララーの視線は、決してデミタスに向かない。

( ・∀・)「むろん、ぼくもね」


.

161 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:45:53 ID:S8s5N.lo0
          ※



『さっさと動けバカヤロー!』

クラクションのけたたましい音と野太い罵声に襲われ、デミタスは意識を取り戻した。
いつの間にか信号が青に変わっていた。急いで車を発進させる。
だというのに、背後のトラックからは不満げなクラクションがもう一度鳴らされた。

助手席をちらりと見る。
ハイン。無表情に前だけを見ている。

(´・_ゝ・`)「何もあんなに怒鳴らなくってもいいのにね。
      狭い日本、そんなに急いでどこへ行くー……なんてさ。
      ちょっと古いかな、ははは……」

車内にはデミタスの笑い声だけがこだまし、それもすぐに消えた。
ハインは何の反応も示さない。
無表情の目はわずかに落ちくぼみ、いくぶんかほほも痩けている。

内藤キュートが杉浦しぃを診るため旧閉鎖棟にこもってからの十日間、
デミタスは地下と地上の往復の合間を縫ってハインに会っていた。
心配だったからだ。

ハインはアルコール以外の一切、わずかなツマミでさえ口にしていなかった。
話しかけても上の空で、うつろにビールを飲み下していた。

162 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:47:04 ID:S8s5N.lo0
(´・_ゝ・`)「だいじょうぶだよ、内藤さんも、お兄さんも元気にしてるから」

ハインの肩がぴくりと動いた。まただ。
彼女は内藤キュートの話題の時だけ、明確な反応を示す。
彼女にとって、内藤キュートが特別な存在であることは今までもそれとなく理解していた。

だが、これほどまでの影響を与えるものだとは想像だにしていなかった。
冗談でなくこのままキュートに出会えなかったら、
衰弱死してもおかしくない空気を彼女はまとっていた。

何とかしなければならない。他ならぬ、ぼくが。

周囲の景色が整然とした街並みから、山林のそれへと変化する。
ろくに舗装もされていない道を無理やり突っ切るため、
車体はでこぼこと何度も跳ね上がった。尾てい骨に振動が伝わる。

(´・_ゝ・`)「平気?」

人からは意外と言われるが、デミタスはアウトドアな趣味を持っている。
この車も山登りに適した四駆だ。悪路も問題なく走破できるようにはなっている。
それでもこの道は、車で行くには少々無理があった。

それでも、行く価値のある場所なのだ。
半分は自分自身の決意のため、もう半分はハインに少しでも元気を取り戻してもらうため。
――いや、結局は全部、自分のためなのだろう。大切な人の幸福を求めるのは、エゴだから。

163 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:48:11 ID:S8s5N.lo0
デミタスは車を止めた。

(´・_ゝ・`)「さ、手を取って」

ハインの手をつかみ、いくらか強引に引っ張り出す。
木々生い茂る山中の真っ直中であるそこには、小さな、
本当に小さく簡素な社(やしろ)と、その屋根を伝い落ちる湧き水が流れている。

デミタスはお椀型にした手で湧き水の流れを遮り、ある程度たまったそれを口に含んだ。

(´・_ゝ・`)「だいじょうぶだから」

そしてハインにも同じ事をさせるべく、つかんだ手を水にさらす。

(´・_ゝ・`)「この地域一帯の地層にはね、気の力を伴った水脈が張り巡らされてるんだ。
      基本的には人目のつかない所を流れているんだけど、
      その一部が時々地上につながるみたいなんだよね。

      ここも小さいけど、その地上とつながった気脈の一端なんだ。
      俗に言うパワースポット、日本語では気場ともいうらしいけどね。

      ……偉そうなこと言って、ぼくも人から教えてもらっただけなんだけどね。
      さ、飲んでごらん。力をもらえるから」

そういって、デミタスはハインの手を彼女の口に近づける。
その時だった。
デミタスの腕に予期せぬ力が掛かったかと思うと、ハインの手首がくるりとひっくり返った。

164 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:49:34 ID:S8s5N.lo0
確かな意思を感じさせる動きでもって、
手中に溜まっていた水は地面にまき散らされた。

从 ゚ -从「あんたはさ、頭は良くても、バカだよな」

指の端に付着した水を無表情に眺めているハインを前に、
デミタスは喜んだものか嘆いたものかわからなかった。
彼女がまともに話してくれたのは、うれしい。
ここ十日近く彼女の声を聞いていなかったのだ、うれしくないわけがない。

けれども、こうも直接的に好意を否定されると、さすがに落ち込む。
だからデミタスは、苦笑いに逃げ込む。

(´・_ゝ・`)「うそじゃないんだよ、ぼくの患者さんでも、
        実際にここの水を飲んで一気に症状が良くなってたりしてさ――」

从 ゚ -从「結婚しよっか」

165 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:50:32 ID:S8s5N.lo0
ハインの顔を見つめる。無表情に、水を吸った地面を眺めている。
聞き間違いだろうか。きっとそうに違いない。だって、彼女がそんなこと言うはず――

从 ゚ -从「結婚しよっかって言ったんだ。いやか?」

今度は間違えようもなく、はっきりと聞き取れた。
彼女から、結婚を申し込まれた。全身から力が抜けていくのがわかる。

(´ _ゝ `)「いやじゃ、ない。むしろうれしい。
      本当にうれしいよ。きみのことを、一生守っていきたいと思ってる」

けれど。

(´ _ゝ `)「――でも、ごめん。ダメなんだ。それは受けられない」

ハインは何も言わない。何を考えているのかもわからない。
その横顔が、ふと、懐かしい顔と重なる。

166 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:51:38 ID:S8s5N.lo0
たじろぐ。

デミタスはいまはっきりと、
自分がなぜここまで彼女に執着するのかを、完全に理解した。

(´ _ゝ `)「きみに、隠していたことがあるんだ。
        誰にも言わないで、墓まで持って行くつもりだった後ろ暗い過去。

        でもきみには、ハインには知っていて欲しい。
        告白してくれた、きみにだけは。ぼくは、ぼくはね。……ぼくは――」

忘れることのできない、あの人。

(´・_ゝ・`)「人殺しなんだ」


.

167 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:52:34 ID:S8s5N.lo0
          ※



『幼年期の終わり』。
アーサー・C・クラークの遺したSF界の超名作古典。
人類が人類という幼年期から脱皮していく様を鮮烈に描いた、壮大な叙事詩。
いまなお色あせることなく、数多のクリエイターに影響を与え続けている。

その小説を、キュートは朗読している。
冒頭から読み始め、いまは第二部の半ば。
ボイス邸にてジーン・モレルが気を失ったところまで進んでいた。

もう二時間近く読み通していたため、のどは渇き、つっかえる頻度も高くなっていた。
それでも、キュートは止まらなかった。

傍らのしぃに、読み聞かせなければならなかった。
確かめるために。勘違いでは、ないと。

旧閉鎖棟。その深奥の静寂に、キュートの声だけが響く。
キュートの呼びかけが響く。物語はすでに、第三部――最終章へと突入していた。

168 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:54:01 ID:S8s5N.lo0
キュートは『幼年期の終わり』の中でも、この第三部が何より好きだった。
心酔している、と言ってもいい。それは単純な好みから生じる、
趣味的感性の延長線上に起こった現象などでは決してない。

この物語に初めて触れたのは、まだ物心が付いて間もない幼児期だった。
内容などわかるはずもない。だが、それでも好きだった。

毎日のように読み聞かされる、この物語が好きだった。
毎日のように読み聞かせてくれる、その人の声が好きだった。
その人が繰り返し読み聞かせてくれる第三部が、何より好きだった。

その人との時間が好きだった。
その人といるのが好きだった。
その人の愛情が好きだった。
もう二度と会えない人。
永遠に奪われてしまった人。
そのはずだった。
でも――
けれど――

169 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:54:59 ID:S8s5N.lo0






 ――足下の深い岩間で、そのウランの一片は、ついに成就できない結合を求めて
 ぶつかりあいはじめていた。そして、島は夜明けを迎えるために身を起こした。




.

170 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:55:47 ID:S8s5N.lo0
キュートではない。
『幼年期の終わり』に書かれた一節。
読んだのはキュートではなかった。

傍らの男性が、朗々と言葉を発していた。
本も見ずに、キュートを引き継ぐ形で。

涙があふれた。あふれて止まらずこぼれ落ちた。

勘違いじゃなかった。
呼びかけてくれた。
応えてくれた。
会いにきてくれた。
キュートは彼に抱きついた。抱きついて
――抱きついたはいいが、高まる感情をどう処理すればいいのかわからず、
犬のように、遠吠えのように、彼を呼んだ。


.

171 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/09/25(木) 20:57:09 ID:S8s5N.lo0




                  パパ
















                                    《続》

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