o川* ー )o幼年期が終わるようです

《 一 》

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33 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:29:26 ID:rITWvuFw0
          ※



西暦二○三五年。
前世紀の革命的な潮流に比べ、
二一世紀とは進化の袋小路に迷い込んでしまった、淀んだ停止の時代と称されていた。

科学は観測の限界に直面し、文化は過去の焼き直しをサイクルする。
誰もがすでに知っているものをこねくり回す、それが二一世紀だった。
しかしそんな時代にも、顕著な変化を記録したものがある。

精神病患者の激増。
それも重篤な統合失調症患者の増加が、極めて多く見られた。

その傾向は先進諸国において特に著しく、
アメリカ、西欧諸国、アジアの一部において無視することのできない社会問題となっていた。
また発症者が十代後半から三十代半ばまでの若者に偏っていることも、
問題を深刻化させる一因となっていた。

34 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:30:44 ID:rITWvuFw0
むろん各国首脳部も、その状況にただ手をこまねいていたわけではない。
各医療機関に莫大な支援金を送り、抜本的な対処法を研究させた。
しかし世界最高峰の頭脳がその能力をフルに注ぎ込んでも、
統合失調症が発現する明確な原因をつきとめることはできなかった。

故に統合失調症においては予防ではなく、
治療を最優先とするべきだという声が強まっていくこととなる。

多くの研究機関が、競い合うように効果的な治療法の模索に莫大な時間と人を費やした。
いきすぎた実験の末に痛ましい事故が起きたことも、稀ではなかった。
そうした少なくない犠牲の果てに、ひとつの、
非常に高い効果を発揮した治療例が”再発見”される。


幻覚剤――LSDの投与である。

.

35 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:32:01 ID:rITWvuFw0
LSD――正式名称リゼルグ酸ジエチルアミド――は一九三八年に
A・Gサンド社に所属するアルバート・ホフマンというスイス人の
科学者によって発見された幻覚剤である。

A・Gサンド社は当初LSDの有用性に気づかず研究を中止させたが、
数年後、天啓とも呼ぶべき予感に突き動かされたホフマンは研究を再開、
当時すでに発見されていた幻覚剤、メスカリンの凡そ五千から一万倍にも及ぶ
極めて強い作用効果を持っていたことが発覚する。

その他に類を見ない効果はすぐさま多くの科学者、医療従事者の興味の的となる。
なかでもLSDの及ぼすサイケデリック効果と統合失調症(旧精神分裂症)の類似点などが
指摘されたことを受けて、スタニスラフ・グロフを始めとした精神科医たちは
こぞってこれを研究、利用していった。

そして比較的長期間、微量のLSDを服用して症状を穏やかに改善していくことを
目的としたサイコリティック療法と、一度に大量のLSDを服用することで起こる体験を通じ、
濃縮された治療効果を狙うサイケデリック療法のふたつが確立し、
そのどちらもが高い改善率を記録している。
LSDは精神療法の世界において、無視できないものとなる。

36 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:33:37 ID:rITWvuFw0
ことはこれに収まらない。
LSDが世界的な広まりを見せるにつけその居場所も薄暗い研究所の奥に止まらず、
輝ける陽の下へと飛び出していくことになる。

ミュージシャン、アーチスト、詩人といった芸術家たちは、
この未知の感覚を教えてくれる霊薬をこぞって求めた。
彼らはLSDの見せる超現実世界での体験を自らの芸術に可能な限り表し、

それらは既存の文化とは一線を画した、サイケデリック文化として
一定の立場を打ち立てるに至った。

またLSDをもっとも愛していたのは、
一九六十年代のアメリカサンフランシスコ州に群棲していたヒッピーたちかもしれない。

彼らは当時のアメリカ社会――ひいてはキリスト教会文明に反感を持ち、
それとは真逆の思想と捉えた東洋神秘主義、禅や瞑想を至上価値観としていた。
そして拡張された意識――悟りに至るための補助剤として、LSDを用いたのである。

個人という殻から抜け出し、宇宙と一体になることを望んで。

彼らが悟りに至れたか否かは、ブッダのそれが外側から知覚できないのと同様に
何者にも知る術はなかったが、それを目指した者は確かに存在し、
そしてその数はバカにできるものではなかった。

「すばらしい新世界」により一躍有名となったイギリスの作家、
オルダス・ハクスリーが自身のメスカリン体験を著したエッセイ「知覚の扉」が
ベストセラーとなるほどに、サイケデリックムーブメントは隆盛を誇っていた。

しかし、ブームも長くは続かない。

37 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:35:10 ID:rITWvuFw0
一九六二年アメリカで、LSDを含む幻覚剤を規制する法案が通り、
それは年を追うごとに改修され製造、販売、所持にいたるまで刑罰の対象とされることになる。

これは幻覚剤の乱用による事故や事件、バッドトリップから入院するという事例が
後を絶たなかったことから制定された法律であり、粗悪な混合品が巷に溢れ、
それらを使用したサイケデリックパーティが一般大衆の目に
悪感情を植え付けてしまったことも、原因のひとつとなっていた。

精神医療の場などから反対する声がないわけではなかった。
だが、それらの声はすべて黙殺された。LSDと治療効果の関連性は示せても、
どのようなメカニズムで効果を及ぼしているのか解明できなかったために、
その安全性を認めることはできないという結論がだされたのである。

そしてアメリカの後を追うように、世界中でLSDを筆頭とした
幻覚剤を規制する法案が可決され、それから四十年近く、
LSDは歴史の表舞台から姿を隠すことになる。

だが、LSDは再び陽の目を見る。

38 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:36:21 ID:rITWvuFw0
二○二三年、アメリカヴァージニア州に住む開業医が、
重度の精神病患者にサイケデリック療法を施していたことが発覚する。

この開業医は違法行為を行ったとして裁判にかけられることとなるが、
一連の事件に興味を持った記者が患者の快復過程を中心に取材を始め、
その効果がいかに劇的であったかを世論に説いたことで状況は一変する。

LSD必要論が、世に浸透していったのである。
その動きは労働力の減少を嘆く経済界のバックアップや、
NPO組織幻覚研究協会――MAPSなどの活動により加速度的な広まりを見せていく。

MAPSは署名を集め、アメリカ合衆国における食品や医薬品の許可や
取り締まりを行う機関、アメリカ食品医薬品局――
FDAにLSDの再認可を下すよう働きかける。

しかし、FDAはこれを認めず、一度決定した取り決めを覆すことはできないと宣言する。
その言葉に、国は国民を見殺しにしているという声がさらに強まることとなる。

39 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:38:00 ID:rITWvuFw0
そうした国の政策に不服を唱えた人物の中には、
専門の研究室に所属する科学の徒も少なくなかった。
そして、彼らがLSDに代わる新しいケミカルドラッグ・クレンネスを生み出したのは、
FDAの声明が出されてからわずか二ヶ月後のことであった。

というのも、クレンネスはそのほとんどの組織がLSDと同様の構造を持っている、
いわばLSDを基本とした改良品だったのである。

幻覚効果やその作用にいたるまで、LSDと酷似しているこの新薬は、
しかしFDAの取り締まり対象として販売・使用・所持を禁止されているものではなかった。
FDAはしぶしぶ、この新しい幻覚剤に認可を出す。

それから二年。州法などでクレンネスの医療的使用を許可された地域での
統合失調症患者の割合は平均して二割近く減、総数五百万人以上の患者が
日常生活をこなせる程度に快復したことを記録している。

そして、その減少傾向は未だに止まる様子を見せず、
国内景気も上向きを示すようになっていた。

幻覚剤の使用に疑問や嫌悪感を抱いていた国も
アメリカのこの成功を目の当たりにしたことで、
右に倣えと医療におけるクレンネスの使用を認める特例法を許可する流れに傾いていった。

そしてその列の後方には、極東の島国、日本も並んでいたのである。

40 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:39:19 ID:rITWvuFw0
統合失調症による被害は日本においても深刻であり、
現在この国では一千二百万人以上の国民が統合失調症とそれに類する病気によって
各種医療機関を受診していることが記録されている。

これは日本の総人口の一割近くにも上る数であり、
二十年前と比べ十倍以上に増加していることとなる。

日本では長い間この状況への対策が決まらず右往左往していたが、
アメリカの成功から遅れること六年、麻薬及び向精神薬取締法の一部を改定し、
国の定めた特定の医療機関にのみクレンネスの利用を許可する旨を通達する。

そして、その国の定めた特定の医療機関こそが、
北陸地方北部に在する、相真大学病院である。

41 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:40:15 ID:rITWvuFw0
相真大学病院の歴史は古く、明治時代にまで遡る。
相真癲狂院という名で明治三○年に立てられたこの精神病院は、
やんごとなき方の心的治療の名目で設立された、対象の非常に狭い病院であった。

しかし二度にわたる世界大戦、バブル期の世相などを反映して
他医局の統廃合を行い徐々に総合病院の態を呈していった相真は、
一九八○年にその名を相真総合病院へ、そして二○二○年には
教育機関としての附属大学を設立し、相真大学病院へと名を改める。

その歴史とともに名も形態も変わってきた相真であったが、
当初の理念である心の病の治療を最優先と捉えているところに変化はなく、
それは設立した大学での教育にも如実に現れていた。

こうした経緯、また、現院長である陣内モララーがアメリカの医局で
直にクレンネスを使用した治療に携わっていたこともあり、
日本におけるクレンネス使用の第一位として相真大学病院が選ばれたのである。

法改正から二年後、初夏の兆しが差し込み始める六月から、
治験という形で相真大学病院ではクレンネスが使用されることが決まる。
このニュースは瞬く間に日本全土へと相真の名とともに知れ渡り、
その広がりに比例して附属の大学を受験する者の数も増加していった。

42 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:42:03 ID:rITWvuFw0
内藤キュートも、そういった学生のうちの一人であった。
彼女は元々精神科医を目指しており、専門に学べる大学を求め
相真大学もその候補のひとつに入っていたが、一連の騒動を見て志望を相真に一本化、
日本でもっとも精神科に重点を置いているこの大学を受験することを決定、合格を果たす。

その彼女はいま、泣いていた。
感情が閾値に達すると我慢できずに泣きだしてしまうのは、キュートの昔からの癖だった。
車の助手席に背中を丸めながら座り、もれでる嗚咽をかみ殺して、
その折り畳まれた自身の幼い肉体を恨むように力を込めて全身を締め付けていた。

43 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:44:29 ID:rITWvuFw0
从 ゚∀从「洟、でてるぞ」

運転席のハインからティッシュをボックスごと手渡され、
ひったくるように洟をかむ。ぐしぐしと鳴る音が妙に子供じみていて、嫌な気がした。

从 ゚∀从「そんな泣いてばかりいると、かわいい顔が台無しになっちゃうぞ」

o川*゚ぺ)o「一ト月早く生まれたからって、おねえさんぶらないでよ。
      それに、こんな顔幼いだけでかわいくなんかない」

从 ゚∀从「へーへー、さよで」

そういいながらハインは、今度は手持ちのハンカチを手渡してきた。
キュートは華やかな匂いの香るそれを受け取ることを躊躇しながらも、
結局手に取り、目元を覆い隠すようにして涙を染み込ませた。

ハイン――本名はハインリッヒ長岡。キュートのルームメイト。
今日は涙を堪えながら歩いていたところを彼女に拾われ、
アパートまでの道を運転してもらっている。

44 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:46:02 ID:rITWvuFw0
キュートより一学年上の薬学部生だが彼女は三月の早生まれ、
キュートは四月生まれということで学年の差など気にせず対等の友人として付き合っている。

ハンカチの隙間から、ちらっとハインをのぞき見る。
すらりと伸びた手足。一八○弱はありそうな高い身長。
ドイツ人の父親から遺伝した彫りの深い目鼻立ち。

黒いカラーコンタクトを嵌めているため親しい者しか知らないが、本来は瞳も蒼い。
髪も元は金髪だったらしい。人目を引くのが嫌で、黒く染めているそうだが。
しかしそんな彼女の努力も空しく、その姿は否応なく人目を引いている。
並んで立つと、どうあがいても同年代には見えない容姿。

ハインとは馬が合い付き合っていて心地良いのは間違いないが、
容姿のせいで彼女に対し気後れすることがあるのもまた事実だった。

ハンカチを取り、端を合わせて折り畳む。

45 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:47:14 ID:rITWvuFw0
o川*゚ぺ)o「ありがと、ちょっと落ち着いた。後で洗って返す」

从 ゚∀从「いいよ別に、気にしないし。ほら、ちょーだい」

そう言うなり、ハインはキュートの手から自分のハンカチをすくい上げた。
反動でハンドルが微妙に切られたのか、車体がわずかにゆれる。

o川*゚ぺ)o「危ないよ」

从 ゚∀从「へーきだよ。それよりさ、どうするん?」

o川*゚ぺ)o「どうするって?」

从 ゚∀从「進路。薬学部でも悪くないと、俺は思うけどな。
      最終的にはキュートが決めることだけどさ」

ハインの口調はあくまで軽い。
ざっと概要を話しただけで退学する可能性などについては説明していないのだが、
そのことを教えたらハインの態度も変わるのだろうか。
変に気を使ってほしくなかったので、黙っておくが。

o川*゚ぺ)o「別に諦めてなんかない。ただ……」

从 ゚∀从「ただ?」

o川*゚ぺ)o「なんだかすごく、怖い人がいて」

从 ゚∀从「どんなやつだ?」

46 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:48:20 ID:rITWvuFw0
言われて、キュートは思い浮かべる。
枯れ木のような身体から、人を圧倒する威圧感を放っていた老婆の存在を。
言葉の端々から伝わる人間味のない冷たさは、いま思い出しても身震いする。

それに、彼女のことを考えると頭の中がぐちゃぐちゃして、
なぜだか思い出したくもない古い記憶を掘り返してしまいそうな危うさを覚えた。


あいつの記憶。


从 ゚−从「……そいつ、素直クールって名前じゃないか?」

過去へ遡りかけた意識が、ハインの声に呼び戻される。
素直クール。冷たい枯れ木の老婆。胸の奥に異物感が沸き上がり、
それを押し込めるようにキュートは両手で胸を強く押した。

o川*゚ぺ)o「確か、院長先生がそんなふうに呼んでたと思うけど……知ってる人?」

从 ゚−从「知ってるっていうかね」

バックミラーに映るハインの顔は険しい。
いつもあっけらかんとしている彼女にしては珍しい表情だった。
ただでさえ彫りの深い顔立ちに、さらに陰影がかかる。

47 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:49:34 ID:rITWvuFw0
とつぜん、ハインがハンドルを切った。
いつも使っている帰路から外れ、馴染みのない道路にでる。

o川*゚ぺ)o「あれ、帰らないの?」

从 ゚∀从「早咲きの桜を見ながら飯くえるところを見つけてさ、
      付き合ってくれよ。たまには外で飯つつこうぜ」

o川*゚ぺ)o「付き合ってって……今夜は用事があったんじゃないの?」

从 ゚∀从「用事?
      ……あー、そういやデミタスのやつと何か約束してたっけ」

o川*゚ぺ)o「そういやって……」

从 ゚∀从「まあいいからさ」

ハインは聞く耳持たずといった様子で、アクセルを踏み続けている。
強引な彼女らしいといえばらしいが、どこか違和感も覚える。
彼女なりに慰めようとしてくれているのだろうか。

だとしたら、いい迷惑だ。
彼女にはそういうやさしさを期待していない。それに……。

キュートはかっとなって叩いてしまった医師のことを思い出す。

48 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:50:41 ID:rITWvuFw0
o川*゚ぺ)o「いい加減にしないと、そのうちほんとに痛い目みることになるよ」

从 ゚∀从「デミタスのことか? 
      それならへーきだよ。あいつに何かする度胸なんてないって」

o川*゚ぺ)o「今回のことだけじゃないよ。
       もう何人もそうやって別れてるじゃない。遊ぶだけ遊んで、飽きたらぽいって」

从 ゚∀从「んー……つってもなー、向こうから言い寄ってくるのを
      こっちは付き合ってやってるだけだし、それに――」

ハインの腕が伸びてくる。肩に回され、引き寄せられる。
ハインのちょうど胸の下に、頭があたった。

从 ゚∀从「俺にはもうかわいい嫁がいるかんなー」

o川#゚ぺ)o「ふざけないでよ。っていうかだから危ないって」

从 ゚∀从「ぬははは」

ハインの腕をふりほどこうともがくも、
がっちりと絡まった腕からはなかなか抜け出せず、頭の上が重たい。

そうして少しの間ハインの悪ふざけに付き合っていると、
バックの中から電子音が流れ出してきた。携帯の着信だ。
ハインの腕がぱっと離れた。

キュートは携帯を取り出し、誰がかけてきたのかを確認する。
実家からだった。

通話ボタンを押す。

49 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:51:46 ID:rITWvuFw0



『やふー! きゅーちゃん愛してるおー! ちゅっちゅー!!』


.

50 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:52:37 ID:rITWvuFw0
電源を切る。

从 ゚∀从「……何、いまの」

o川* へ )o「何でもない、ただの間違い電話。気にしないでお願いだから」

笑いをかみ殺しているハインの顔がバックミラーに映る。
キュートは顔を背け、窓の外に目を向けた。

父にはほんとに、まいる。

そう思った矢先、再び着信が鳴った。
画面には実家の電話番号が表示されている。
ハインがくつくつ笑っているのが見ないでもわかった。

ちょっと悔しい。
無視するわけにもいかず、電話をとる。
と同時に、向こうが話し出す隙間を与えないよう一気にまくしたてる。

o川*゚ぺ)o「あのねお父さん、電話してくれるのはうれしいけど
      いきなり叫ぶのはやめてって、いつも言ってるよね」

『お父さんなら台所で頭を冷やしてるところよ、落ち着きなさいな』

o川*゚ぺ)o「……おかあさん?」

『ぴんぽーん、せーかいよ。どう、キュート。元気にしてる?』

51 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:53:35 ID:rITWvuFw0
変わらぬ母の明るい声を聞いて、ようやくほっとする。
父はきっとひどい目にあっているのだろうけど。

o川*゚ぺ)o「うん……今日はどうしたの?」

『もう春休みでしょう? 今年は帰ってこれるのかしら。
 お父さんもお母さんも、あなたが無事に二十歳まで育ったことをお祝いしたい親心満載なのよ』

誕生日まではまだ一ト月近く時間があるのに、相変わらず両親とも気が早い。
しかしキュートも何事もなかったなら今年は帰省して、
父と母に会いたいとは思っていたのだ。そう、何事もなかったのなら。

『なによ、むずかしいの?』

何も言わないでいると、母が不満そうな声を上げた。

父と母は、私が転部すると言いだしたら何て言うだろう。
退学することになるかもしれないと知ったら、どう思うだろう。

けして裕福とは言えないうちの家計から、何とかやりくりして
高額な医学部の学費を援助してくれたのだ。二人とも平気な顔をしているけれど、
密かに仕事を増やしていたことを私は知っている。

精神科医になりたいという、私のわがままのために。

52 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:54:40 ID:rITWvuFw0
o川*゚ぺ)o「まだわからない。ちょっと……長くかかりそうな実習があるから」

精神科医になる道を諦めてしまうことは、ここまで支援してくれた
両親を裏切ることになるのではないだろうか。しかし、それで失敗してしまったら。
退学する危険など冒さず、素直に転部した方がまだ安心してくれるのか。
キュートにはわからなかった。

『キュート、あなた相変わらず隠し事が下手ね。何か困ってるんでしょう』

母の不意の言葉に、心臓が凍り付きそうになった。
そんなはずはないのに、もう全部、母には何もかもお見通しなのではないかと
瞬時にそんなことを考えてしまい、キュートは何も言えなくなる。

『どう生きるのもあなたの自由だけれど、
 危ないことにだけは関わらないでほしいわ。お父さんもそれを願ってる』

危ない、という言葉でモララーの話が思い出された。
『彼は危険です。“呑み込まれて”しまうかもしれない』。あれはどう意味だったのか。

重度の精神病患者と接する医者が、瘴気のようなその雰囲気に
あてられてしまうことがあるそうだが、危険とはそういうことを意味していたのだろうか。

危険。危ないこと。
それを言うならば、精神科医という職自体が危険と隣り合わせなのだと言えるのかもしれない。

父も母も、私がそんな道へと進まないことを、本心では望んでいるのだろうか。

o川*゚ぺ)o「……うん、わかってる」

『いい子ね』

53 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:55:56 ID:rITWvuFw0
母はそれ以上追求してこなかった。
日常のささいな出来事、仕事の愚痴、父の失敗を話しては楽しそうに笑っていた。

言葉の上では父を悪く言いながらも愛情を感じさせる母のその口調が、
キュートはとても好きだった。
そのことを告げると、母はムキになって否定したものだが。
そんなところも好きだった。

二人が好きだった。だから、悲しませるような真似はしたくなかった。

どれくらいの間、そうして話し込んでいただろうか。
今までまったく物音のしなかった電話の向こうから、父のうめくような声が聞こえてきた。
わずかに聞き取れる言葉から推測するに、どうやら替わってほしいとねだっているようだった。

『お父さんに替わる?』

o川*゚ぺ)o「ううん、いいよ。またこっちからかける」

『それが賢明ね』

この人、一度話しだすと長いものねと、母は笑った。
そして軽いお別れの挨拶を交わし、携帯を耳元から離した。
しかしキュートは、このまま通話を切るのが名残惜しい気がした。
自分では電源を切らず母任せにして、熱のこもった携帯を片手に握りしめ続けた。

すると唐突に、手元から母の声が聞こえてきた。

54 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:57:26 ID:rITWvuFw0
『……あなたのしたいことをしなさい。それが私たちの望みでもあるのだから。
 それだけよ。……それじゃ、今度こそまたね。身体に気をつけて』

キュートが慌てて携帯を耳に当てると、その時にはもう、
通話が切れたことを告げる無機質な音だけが響いていた。

携帯をかばんにしまう。窓の外に見える光景はもう、
キュートのまったく知らない景色になっていた。すでに相当な距離を走ったのだろう。

ハインは鼻歌を歌いながら快調にアクセルを踏んでいた。
キュートは申し訳ないとは思いながらも彼女の方へ振り向き、話しかけた。

o川*゚ぺ)o「ハイン、ごめん。やっぱり食事はまた今度にしよう。今日は家で休みたいよ」


.

55 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:58:35 ID:rITWvuFw0
          ※



長岡の表札がかかった玄関を開け、部屋の中へと入る。
少し埃っぽい。二人とも遅くまで大学に残り帰ってくるときには
疲れていることが多いので、掃除がおろそかになってしまうのだ。
……というのは、いいわけかもしれない。

ハインは着ていた服を次々に脱ぎ捨て、
不意に誰かが来たときどうするんだと言いたくなる格好になる。
本人いわく、見られて減るものでもないし、とのことだがそういう問題ではないだろう。

キュートはハインとは違い、常識的な格好に着替えをすませる。
そして、誘いを断ったせめてものお詫びにと、夕飯をつくることにした。
冷蔵庫から適当な食材を取り出し、肉と野菜とうどんを炒め、濃いめに味付けをする。
濃い味にしたのは酒のつまみにもなるため。

キュートはアルコールの匂いも苦手で一切口をつけないが、
ハインは堂々と飲酒できる年齢になってから、キュートの知る限り毎日晩酌をしていた。
ドイツ人の父親の血か、どんなに飲んでも翌朝に持ち越すことはないらしい。
それでもこう毎日飲むのは身体によくない。いつか注意しようとは思っている。

56 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 19:59:57 ID:rITWvuFw0
それはともかく。できあがった焼きうどんを居間に運ぶ。
ハインはすでに飲み始めていたらしく、早くもビールの缶がひとつ空いていた。

从//^∀从「ほんとにもう、キュートは最高の嫁だね。愛してるよー」

o川*゚ぺ)o「気持ち悪いこと言ってないで早く食べなよ。冷めちゃうよ」

うどんをすすりながらテレビを見る。
数人の芸人が身体を使って笑いを取りに行っている。

ハインはわはわは笑いながらビールに口をつけているが、
この手の番組のおもしろさがいまいちわからないキュートにとって、
何がそんなにおかしいのか不思議だった。

キュートは皿を空けると自室から一冊の小説を持ってきては、
楽しそうにテレビを見ているハインの隣に腰掛け本を開いた。

「カレルレン」「オーバーマインド」「変容する子供たち」
「ただ一人地球に残った最後の人類」もう何百回と、暗唱できるほどに読み込んだ物語。
楽しさを見出す段階はとっくの昔に通り過ぎている。
キュートはこの小説を、意識を集中させたいときに用いていた。

57 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:03:31 ID:rITWvuFw0
ページをめくりながら考えるのは、母が別れ際に言っていた言葉、
「あなたのしたいことをしなさい」について。

キュートは考える。この十年余、
キュートは精神科医になることだけを目的に生きてきた。
だがそれは、精神科医になってつらい思いをしている人を救いたいから――
という動機からきた夢ではない。なって何かをなしたいのではない。

精神科医になること、そのこと自体がキュートにとっての宿願だった。

今でも精神科医にならなければならないとは思っている。
その気持ちに変わりはなかった。
ただそれは、ポジティブな念に突き動かされた衝動ではない。むしろ――。

キュートの頭に父と母の顔が思い浮かぶ。
愛すべき私の両親。かけがえのない二人。どんな形であれ裏切りたくない。
しかし二人の望みが私の幸福な未来であるならば、
この”執着”は捨て去るべき過ちなのかもしれない。
そこに私がしたいことなどないのだから。

けれど。

したいこと、したいこと――

私のしたいことって、なんだろう。

58 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:04:47 ID:rITWvuFw0
从//゚−从「さっきの話だけどさ」

o川*゚ぺ)o「え?」

隣で呑み耽っているはずのハインから急に話しかけられ、
キュートは思考を中断された。ハインは構わず話し続ける。

从//゚−从「素直クール。妖怪ババア。何百年も前から続いてるちょー古い家の現当主」

素直クール。
何故だろうか。
その名を聞くと、胸の奥の異物感が生起する。

キュートは胸を抑えて、話の続きを促した。

从//゚−从「俺も詳しくは知らない。
      けど一言で言うなら敏腕な人だって、兄貴が言ってた。

      歴史だけが自慢だった素直家を近代化してかつての権威を取り戻させたとか、
      大企業にも顔が利くし有力政治家とのパイプもあるとかで
      いまやこの地方の支配者として君臨してるとか、他にもいろいろさ。
      でもさ、そんなのは”ガワ”の話に過ぎないんだ」

59 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:05:56 ID:rITWvuFw0
ハインの顔はさきほど車内で見せたときと同じように、
険しい陰をつくっている。

从//゚−从「きな臭い噂が山ほどなんだよ。
       親のいない子を外国に売りさばいてるとか、
       法で禁止されてる幻覚植物を大量に保管してるとか、
       人間を処理するためだけに用意された部屋があるとか……

       それに、素直って一族はな――」

ハインの顔が近づく。形の良い口から漏れる吐息がなまぬるくほほをなでた。


     人を呪って栄えたんだ


.

61 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:07:06 ID:rITWvuFw0
          ※



熱めのシャワーを全身に浴びる。肌が焼けるような強烈な熱さ。
しかし全身を駆けめぐる悪寒は一向引くことなく、キュートの四肢を蝕み続けた。

『悪いけど、俺は賛成できない。あの妖怪ババアが関わってる碌でもない企みに、
 キュートが巻き込まれちまうのを見たくない』

悪寒を理由に話を遮ろうとしたキュートに向かって、ハインはそう言った。
真剣な口調だった。曖昧な噂を引き合いに出している態度とは思えないほどに。
何かもっと、具体的な出来事を知っているのかもしれない。
あるいはハイン自身が、何らかの被害を被ったことがあるのか。

疑問はいくつも浮かんだが、それを問いただす余裕がその時のキュートにはなかった。
駆け出すようにして風呂場に逃げだした。


呪い。


オカルトチックで、笑ってしまうほどに前時代的な言葉。
けれどキュートはハインの発言を、質の悪い冗談と一笑に付すことはできなかった。
ハインの態度があまりに深刻だったから――という理由だけではない。

62 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:08:27 ID:rITWvuFw0
浴室に飾り付けられた鏡の前に立つ。
そこには凹凸のない、扁平な身体をしたキュートの姿が映っている。
小さな背。モデルのようなプロポーションを誇るハインとは比べるまでもない。

キュートと類似する身体的特徴の持ち主を探したいならば、
近所の小学校を観察すれば一発だった。子どもの身体。女児の肉体。

十年と少し前。九歳の誕生日を過ぎて三ヶ月後、キュートの成長は止まった。
その時自分の身に起こったことを、キュートはよく覚えている。
あの日が初めてだったから。周囲の誰にも打ち明けなかったが、
あの日が停止の始まりだったのだと、キュートは確信を持って言うことができた。

三年後、キュートが中学に上がったばかりの頃。
一向に成長しない娘を心配した父と母に、キュートは病院へ連れて行かれた。
検査は両親の想像を越える長い期間を要し、キュートはその間一年以上病院へ通い続けた。

が、原因はいっさい不明。体内外問わずどこにも異常は見つからず、
治療の切っ掛けすら得ることはできなかった。

成長しない自らの身体と付き合う方法を説く医師の言葉を聞きながら、
キュートは内心、医学で解決できるものかとつぶやいていた。

永遠の幼性。
第二次性徴の起こらない身体。

それらは医学的要因に基づく現象ではない。キュートはその原因を知っている。


私は呪いを知っている。

63 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:10:11 ID:rITWvuFw0
鏡に映る幼い肉が、胸の皮を引きちぎらんばかりに爪を立てていた。
筋となって流れる血の陰に、無数の傷跡が見え隠れする。
その中に一本、一際大きい蚯蚓腫れが盛り上がっている。
古い傷。胸についた初めての傷痕。

胸の奥が重たい。あの日もそうだった。
血を循環する臓器の働きが滞り、本来流れるべきものがすべて
そこに集まってしまったかのような気持ちの悪さ。

強烈な吐き気。
しかしその吐き気では、絶対に嘔吐することができないのだと、
キュートはすでに知っている。

いよいよもって気分が悪くなってきた。
しかし何故だ。何故今日、何故今、あの日と同じ不良がこの身に起こっているのか。
何故あの老婆を前にすると、その名を聞くと、胸の重みが強くなるのか。

呪い。

呪い。

呪いで栄えた一族の末裔。素直。素直クール。彼女は――

64 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:11:17 ID:rITWvuFw0




     はけ

65 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:12:05 ID:rITWvuFw0
身体が沈んだ。右足の先がなくなっていた。

違う。床の下へと沈み込んでいるのだ。

いやそれも違う。床が床でなくなっていた。
そこには液体しかなかった。無間に続く広漠な液体の砂漠。

沈んだ右足を引き抜こうと身体をよじる。
しかしバランスを崩したキュートは膝をつき、ついた膝からさらに沈み込んでしまう。

いや。

いやだ。

身体が重い。自由が利かない。粘度高く絡みつく液体。
もがけばもがくほど、キュートの身体は意志持つそれの体内へと引きずり込まれていった。

腰が。

胸が。

肩が。

キュートから乖離しその感覚すら消え失せていく。

66 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:13:23 ID:rITWvuFw0



     はけ

67 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:14:22 ID:rITWvuFw0
液体と同化した身体に音が響いた。
それは偶然にしぶいた液体の脈動にしては意味を持ちすぎており、
明確な意図を内包した意味ある言葉にしてはあまりにも重性に満ち満ちていた。

キュートは叫び声を上げながら逃げようとした。
逃げようとしてもがいて、もがいて、ついにはその叫び声が液体に溺れた。

あの日と同じだ。

口の中へ潜り込んできた液体に、気道を塞がれる。
外だけでなく、内側まで浸食されていく。
そしてそれらは、粘りつくなめくじの速度で一所に集まっていく。
キュートの中心――胸の奥、胸の奥へと。

68 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:15:58 ID:rITWvuFw0



     はきだせ

69 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:16:48 ID:rITWvuFw0
液体の奥に、黒い影が浮いていた。
不定形な影であるそれはキュートに身体にまとわりつき、その肌の上を蠢いていた。
それの一部が、めくれ上がるように二つに裂けた。鈍い光がふたつ、灯った。


それと目があった。












.

70 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:17:33 ID:rITWvuFw0

『キュート!』

71 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:18:41 ID:rITWvuFw0
自分を呼ぶ声とともに、キュートは正気にもどった。
出しっぱなしのシャワーからもうもうと湯気が立ちこめ、
お湯を張っていた桶がひっくり返っている。
無限に広がる液体などどこにもない。いつも通りの浴室だった。

いつのまにか浴室へと入り込んできたハインが、
濡れることも気にしない様子でキュートに抱きついていた。

从; д从「大丈夫だからね!
      私がいるからね!
      なにも心配いらないからね!
      キュート、キュート、キュート、キュート……」

嫌な悪寒に震えるキュートの、その震え以上に
ハインの様子はあわてふためいていた。

そしてそれ自体が何かの呪文であるかのように、
キュートの名を延々と呼び続けていた。

しかしその自分を呼ぶハインの声を、
キュートは耳にしていなかった。

キュートの意識は、別の所へと飛んでいた。

72 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:20:03 ID:rITWvuFw0
今のは幻覚だろうか。

いいや違う。

あれは現実だ。

憎悪の海に呑まれたことも、
それが私の内へ浸食したことも、
胸の奥へ迫ったことも、
その意思があの影にあったことも、
あの双眸が、口が、精神が訴えかけてきたことも、
なにもかも、みんな、全部。


あの日と同じように、
“あの女”が私に見せた現実。


そうか。

お前は私を許さないのか。

お前を忘れて生きることなど許さないのか。

いいだろう。

私がお前を忘れようとも、お前が私を忘れないなら――

73 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:21:12 ID:rITWvuFw0










            これは復讐なのだ

            私の大切なものを奪った、あの女<ママ>への復讐







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74 名前:名も無きAAのようです[] 投稿日:2014/07/28(月) 20:22:00 ID:rITWvuFw0
          ※



   ――わかりました。旧閉鎖棟――彼の下へ案内します。




















                                    《続》

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