忌談百刑

第9話 七色ポケット

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296 名前:語り部 ◆B9UIodRsAE[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:17:24 ID:vygusHcs0

【第9話 七色ポケット】

"ξ゚听)ξ"






――じゃあ、行かせてもらうわ。



今回私が話すのは"怖い話"っていうより"痛い話"よ。


(´・ω・`)「それって怪我とか、事故とか?」



まぁ、そういった類の話ね。





皆、A組のレモナちゃん、知ってるわよね



('A`) 「知ってるぜッ! あの声優のたまごちゃんだろ?」


( ^ω^)「あぁ、なんかオーディションに受かったとかなんとか聞いたことあるお」



そう、そのレモナちゃん。

私ね、あの子と1年の頃同じクラスで、結構仲が良かったのよ。



今回は、その、レモナちゃんのお話。

297 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:18:09 ID:vygusHcs0

レモナちゃんは、アニメが大好きだったわ。

最初のきっかけは、誰しもが通るであろう日曜朝からのアニメラッシュ。
まぁ、男の子なんかは、特撮の方が興味あるのかもしれないけど。

レモナちゃんも、いち女子児童として、プ○キュアなんかの可愛らしくて逞しくもある女の子に憧れていたの。

そんな彼女の夢が、"アニメの中のキャラクター"から"声優"に切り替わるのにそう時間はかからなかったわ。

中学生の頃には、企画として行われた"中学生から人気声優をプロデュースする"みたいなのに応募して、
グランプリは逃したものの、その時、とある事務所の"発掘"なんかを担当しているお偉いさんに見込まれて、
中学生にして、事務所に所属、ガヤレベルだったけど、実際に何本かのアニメに出演したらしいわ。

私はアニメなんて、金曜ロードショーでやってるジブリくらいしか見ないけど、
彼女からしたら、"声優"という職業は、キャラクターに命を吹き込む大切な物なんですって。

画竜点睛っていうのかしら、最後の一番大事な一筆足り得るその行為は、
他のどんな芸術的行為よりも尊いなんて、大仰に語ることも多かったの。



でも、その割には、イマイチその後の仕事に繋がらない。

どのオーデションでも、必ず最後に言われるのが、



"君の声って、なんていうか、君そのものなんだよね"



簡単に言ってしまえば、彼女は声を使い分けるのが苦手だったの

298 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:18:53 ID:vygusHcs0

どんなキャラクターのセリフをしゃべっていても、最終的に"レモナちゃん"に戻ってきてしまうような。
そりゃ、産み落とした赤ん坊が自ら産道に戻って言ったら、こりゃだめだわってならない?




( ^ω^)「いやな例えだお」







そんなわけで、あいも変わらず、名前すらついていない"少女A"を演じ続けた彼女は、
その日も、オーディションでダメ出しをされ、落胆して帰路についたわ。


『はぁ、オーディションなのに監督さんに怒られるって……』

『もう、絶対絶望的だよ……』




そんな弱音をひとりごちながら、雑居ビルを抜けて、駅前に出るつもりだった。

299 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:19:24 ID:vygusHcs0

丁度その時、カラオケ屋の前で、ポケットティッシュか何かを配っているお姉さんがいて、

何となく、ここで善行を積んでおけば、もしかしたら今日のオーディションに受かるかも、
なんていう打算的な考えで、そのお姉さんが差し出した袋を受け取ったわ。


『あーっす』


なんて、女の人の割に存外低い声でお礼をいうお姉さんの声を後ろに聴きながら、
その時は特に、手の中のそれを確かめることもせず、無造作に鞄に突っ込んだの。





家に帰って、ご飯を食べる気力も湧かなくて。

彼女はベッドに倒れ込んだ。

自分のシャンプーの匂いが染み込んだ枕に顔をうずめると、
叫びだしたくなるような焦燥の感情が吹き出してくる。

もう自分と同じくらいの年で、主役を張っている子がいるのだ。
というか、あの日あそこでグランプリを取った子だって、今は超人気声優なのだ。


『あ――』


その後の叫びが出かかって、慌てて彼女は自分を説得する。


声優が、自分の喉を大事にしないでどうするの?
一流の職人は、道具を雑に扱ったりしない。
私にとっての、職人道具は喉なんだから。



そうやって、とぐろを撒いたドス黒い叫びを、ギリギリのところで飲み込んだの。

300 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:19:59 ID:vygusHcs0
――♪


勉強机に放り投げた鞄の中から、スマホの着信音が聞こえる。


昨日事務所の先輩に、『絶対受かってきますっ!』なんて張り切って言ってしまったから、
きっと、今日どうだった? なんてLINEが飛んできているのだろう。


半分眠りに落ちそうな、酷く億劫な倦怠感を側頭部に携えながら、
彼女はベッドに沈んだ自分の身体を引き起こす。

そうして、無理な体勢で机に手を伸ばして、鞄を取ろうとした。



バサササッ!




案の定、鞄はひっくり返って、その中身が全部カーペットに広がってしまったわ。



『あぁー……最悪には、最悪が重なるのね……』



急に、"小公女セーラ"のワンシーンが浮かんで、
自分が寄宿舎でいじめられるセーラにでもなった気分になって、

覚えている限りの、自分を奮い立たせるような健気なセーラのセリフを言いながら、

レモナちゃんは、鞄の中身をもう一度詰め直したの。

301 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:20:32 ID:vygusHcs0

すると、さっき帰り道で貰った、袋が目に入った。

てっきりポケットティッシュか、それとも女性相手に配ってるのなら化粧品の試供品かなにかかなと思っていたけれど、
どちらも違ったわ。



それは、小さな袋に小分けされた、七色の飴玉が入った、可愛らしいお菓子袋だったの。

それと、ガシャガシャのカプセルの中に入っていそうな、こう横に折りたたまれた印刷用紙が一枚。

彼女はその、鉱石の原石をまあるく加工したような、鈍く、それでいて内に力を秘めた色合いの飴玉に目を引かれる。
赤、青、黄色、オレンジ、緑、黄緑、紫。それぞれが怪しい光を湛えていて、蠱惑的な雰囲気があったわ。


包みの封代わりに結ばれた、赤いレースのリボンを解くと、七つの果実が混ざり合った、甘ったるい匂いが部屋中に広がる。


脳の奥がじんわぁりと痺れていくような甘い香りに、くらくらという眩暈を感じながらも、
この飴玉をしゃぶり尽したいという強い欲求を感じていたわ。



彼女はまず、その紙切れを広げてみる。

これだけ強い魅力を放つ飴玉なのだ。原材料になんか"ヤバい"ものでも使われているかもしれない。
案外そういうところに抜け目のない彼女だから、きっとその紙切れに成分表なんかが記載されていると思ったのだわ。



そこには、原材料も無ければ、成分表も無く、あるのは、この飴玉の説明だけだった。

302 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:21:09 ID:vygusHcs0

*************** 七色インコのジューシーのど飴 *******************



・こののど飴は、【決して無くならない】のど飴です。

・それぞれの色に対応した、素敵な声色が、たちまちあなたの物に。



・赤は【カッコいい声】

・青は【落ち着いた声】

・黄色は【元気な声】

・緑は【癒しの声】

・オレンジは【熱い声】

・黄緑は【幼い声】

・紫は【大人の魅力(笑)】




・さぁ、あなたも【七色インコ】を楽しもう。



************************************************************

303 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:21:40 ID:vygusHcs0


書いてあったのは、ただそれだけだったわ。



( ^ω^)「七色インコってあれかお? 手塚治虫の」


(´・ω・`)「変装が得意な怪盗だっけ」


詳しくは私も知らないわ。読んだことないし。




レモナちゃんも、正直七色インコという言葉にはいまいちピンと来なかったけど、
ともかく、こののど飴を舐めると、色々な声が出せるようになるって事だけ何となく分かったわ。

しかし、こんなにピンポイントなものが、ピンポイントなタイミングで、自分の下に来るなどあり得るのだろうか。

そもそも【無くならない】とはどういうことなのか。



その紙切れのせいで、あんなに魅力的だったはずの飴玉も、どっかイカれた宗教団体が大量殺人でも行うために街にバラまいた毒薬のように見えてくる。


誰もが簡単に口にするように、ワザと香料も強くして、そうやって香りで疑念を吹き飛ばすような調合でもしてるのではないのか。

304 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:22:18 ID:vygusHcs0

でも。

でも、もし、本物だったら?



彼女は崖っぷちだったの。

これ以上オーディションに落ち続けると、事務所との契約を切られてしまう可能性だってあったわ。

最初は優しかったマネージャーも、レモナちゃんの優先順位をドンドン下げ、
自身のスケジュール管理も、二の次三の次にされることも多かった。

果たして、"声優"になれない自分に生きている価値などあるのであろうか。

声優になれなかった"レモナ"はもう、今を生きるレモナと同一人物ではない。

"レモナ"の皮を被った負け犬でしかないのだ。



しかも、今からその"負け犬"の皮を被れば、それを脱ぎ捨てるチャンスなど永劫に来ない。
10年、20年、30年、いや、それ以上の時間、それこそ死ぬまで、自分は"レモナに成れなかった何者か"として生きていくことになるのだ。

それならば、ここでいっそ、この毒薬だかもしれない、この飴玉を頬張って、
一瞬でも夢を見て、死ぬなら死ぬで、その後の負け犬人生を歩まなくてよかったなんて安堵できるのではないだろうか。

惨めに生きていくくらいなら、少なくとも今死ねば、テレビのテロップには"声優"って出してくれるだろうか。
そんなネガティヴだかポジティブだか分からないルサンチマン丸出しの女子高校生的思考がぐるぐると回り出す。



そうやっているうちに、彼女の手は、お菓子袋の中の、飴玉の一袋摘まみ上げていた。

305 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:23:02 ID:vygusHcs0



【赤いのど飴】だった。



先ほどの説明を信じるなら、【カッコいい声】になるはずだ。
でも毒薬ならどうだろう。多分大量に吐血して死ぬのだろうな。



なら青ならきっと、"青酸カリ"かな? なんて考えが不意に浮かんで、なんだか悩んでいることが急に馬鹿らしくなった。



彼女は【赤いのど飴】の包装を破いて、ポイ、と口に放り込んだ。



――イチゴ味だ。



控えめな甘さと、強烈な酸味が舌先から根元まで一気に抜けていく。

でも、その後に口の中いっぱいに広がる"多幸感"を凝縮したかのようなイチゴの香りが、
そのまま脳天にまで突き刺さるかのような衝撃を彼女に与えたわ。



('A`) 「それ、"ダメ、絶対"が入ってるだろ……」






『おいひい……』

彼女は驚いたわ。

306 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:23:54 ID:vygusHcs0

味に驚いたのではない。

自分の口から零れた、何でもない言葉が、全くの別人のものだったの。
彼女の、少し鼻に抜けるような甘い声では無くて、中性的でハスキーな力のある女性の声だったわ。


驚いて、驚きすぎて、思わず飴玉を飲み込みそうになるのを、反射的に吐き出すことで防いだ。

カーペットの上に転がった、唾液に塗れた飴玉は、先ほど口に入れる前と、寸分違わぬ大きさのままだったわ。


彼女はそれを摘み上げると、洗面所に持っていき、表面にへばり付いた、糸くずだとかどっかの毛だかをすすぎ落し、

それからもう一度口に含んでみる。



味なんかもうどうでもいい。


そしてそのまま、飴玉を口の中心から頬側に移動させて、その状態で喋ってみたの。



『私は、レモナ』



また、先ほどのハスキーな声が飛び出した。

鏡に映る自分の顔が、自分のものではない声を吐き出しているのは、いささか奇妙な感覚だったけど、
それでも、それ以上に、とんでもないものを手に入れてしまったという恐怖というか後ろめたさというか
そういうまるで"宿題をやってきてないのが担任にバレる5秒前"みたいな気持ちになったわ。


それと、同じくらいに、嬉しかったの。


これさえあれば、私は、私以外の何者かになれる。
決して負け犬なんかじゃない、もっと輝かしい何かに。

307 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:24:26 ID:vygusHcs0


彼女は急いで自室に戻り、クローゼットの奥から小学校の時にハマっていたビーズのアクセサリー作りの道具箱を取り出した。

その中にあった、カラフルなビーズを色分けして保存しておいた、小さな小瓶たちを取り出した。

赤、青、黄、緑、黄緑、オレンジ、紫。丁度七つある。



瓶の中身を全部ゴミ箱に流して、内部を丁寧にウェットティッシュで拭いて、
そうして、その"七色インコのジューシーのど飴"を一つ一つ丁寧に小瓶にしまった。


最後に、自分の口の中にあった、【赤いのど飴】も、ちゅぽん、と口から摘まみ上げて、
よくウェットティッシュで拭ってから、小瓶に詰めたわ。




.

308 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:25:19 ID:vygusHcs0


それからの彼女を表現するなら、まさに"快進撃"


最初は教育番組の30分アニメの主役。

丁度、主人公の女の子の声優を探しているオーディションで、彼女は【黄緑ののど飴】を頬張って挑んだわ。

幼女特有の、舌っ足らずでトロけたような声が、自分の口から飛び出て踊り出す。
しかも、ひとたび口からその飴を取り出せば、元の女子高生の声に戻るのだから、監督含む関係者も総立ちよ。

あれよあれよという間に合格を勝ち取って、しかもその番組の評判も上々だったわ。


次は、深夜の、ちょっとエッチな青年向けアニメ。

成人向け、ではないんだけど、なかなか過激な表現も多い内容だったらしいわ。
彼女はそこに、主人公役ではなく"敢えて"一番年長者の、一番ドスケベな役のオーディションに挑んだのよ。


頬張ったのは、もちろん【紫ののど飴】


彼女が今、あの教育テレビの、あの幼女の声優であることは、当然この場にいる全ての人間が知っている。
だからこそ、彼女は、"自分の演技の幅"をアピールするために、わざと、そんな役に挑んだの。


結果は、当然合格。


しかも、そのキャラクターが人気になりすぎて、スピンオフアニメまで作られることが決定したわ。


( ^ω^)「すんごいサクセスだお」

('A`) 「っていうか、ツン、アニメ詳しくね?」


めっちゃ自慢されたから、今でも根に持ってるので覚えている。


('A`) 「お前も、ラオウさまみたいな声になってるが」


ともかく、そういう狡いとこには微妙に知恵の回る彼女だったから、
"声を自在に使い分けられる"というセールスポイントを存分に活用して、一躍人気声優へと登りつめていったわ。

309 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:25:54 ID:vygusHcs0



そして、ついに、あの日が、やってきたの。


彼女が子供のころからずっと憧れだったアニメ。


最終回を迎えるたびに、また新しいコンセプトでアニメが始まる、ある意味物凄い長寿ともいえるコンテンツにまで成長したあの、
プ○キュアの、新番組の、主人公メンバーのキャストを決めるオーディションをついに受けることになったのよ。




彼女は舞い上がった。

夢が叶う直前だった。

今が一番幸せだった。





この"のど飴"のお蔭で、私は、夢を叶えることが――。

310 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:26:34 ID:vygusHcs0

でも、人生って上手くいかないものね。
いえ、そんな"悪魔が作り出した道具"みたいなものに頼った時点で、彼女の人生なんてもう狂っていたのかもしれないわ。





その新プ○キュアのコンセプトは、【歌って戦える美少女戦士】

つまり、その歌唱力に重きの置かれたものだったわ。

レモナは、その飴玉を口に含み続けなければならないという特性上、
歌を歌うような仕事は極力避けてきたわ。

どうしても歌っている最中に、飴玉が口から飛び出してしまうの。

今までは、歌は苦手で、なんていって、小声のぼそぼそで許してもらっていたけれど、
今回のオーディションはそうはいかない。



渡された課題曲は、どのキャラクターのものでも、元気溌剌に、大きな声で歌う必要のあるものばかりだった。



せっかく掴みかけた夢が、こんなに下らない理由で水泡に帰しようとしている。

ここまで彼女を押し上げてきた異様な熱気と人気が、彼女にある一つの決断をさせたわ。

311 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:27:12 ID:vygusHcs0

















『そうだ、口の中に、のど飴を収納できるスペースが、"ポケット"があればいいのだわ』


















――これが、彼女の、狂気の、始まり。

312 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:27:55 ID:vygusHcs0


とある夜。

彼女は、洗面台の前に立っていた。

両親は、自分が今までの仕事で稼いだお金で、温泉旅行をプレゼントし、今日は家にいない。
自分は仕事で行けないけど、たまには夫婦水入らずで、なんてやっぱり狡い知恵を駆使して、家から追い出した。

洗面台には、カッターナイフと、ガーゼと、エタノール消毒液と、ライターが転がっている。



――今から、彼女は、自分の頬の内側に、"ポケット"を作るのだ。



まずは、父親の自室からくすねたライターで、カッターナイフの刃を炙った。

どれくらいまでのカッターの刃の長さを使うのか、見当がつかなかったから、
とりあえず、ゆっくりと、かち、かち、かち、って刃を出しながら、万遍なく炙っていく。

次に、自分の口の中を良く洗った。

歯磨きはもちろん、エタノール消毒液を口に含んで、ぐちぐちと濯いでみた。

むせかえるような消毒液の匂いと、アルコールのあのじんわりと脳髄を蝕んでいく感覚が
口いっぱいに広がる。

しかしながら、口内は人間の身体の中でも、いっとう細菌の多い場所なのだから、
しっかりと滅菌しなければならない。




10分ほどぐちぐちとやって、吐いてを繰り返し、最後にもう一度水で濯いで、準備は完了した。

313 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:28:28 ID:vygusHcs0

彼女は鏡に向かって笑いかける。

そのままドンドン口角をつりあげて、"イー"と横に広く口を開けた。

左手の人差し指を、口角にかけ、思いっきり横に引っ張る。

そのまま親指で、自身の頬を押し上げ、口内の頬肉が、見えやすい位置まで盛り上がるようにした。

十分肉が見えると、そこでようやく、先ほど熱消毒したカッターを取り出す。

そのまま、ゆっくりと、白とピンクの混ざり合った自身の頬肉に、その刃の先端を沈み込ませた。

やや張っているような抵抗感があり、上手く刺さらない。しかし、力をこめれば込めるほど、その先端は肉を鋭く圧迫し、
"これ以上は危険な領域である"という警告を、痛みに変えて発していく。

彼女の頭の中では、オーディションで歌う予定の課題曲がかかっている。
それが、サビ前の盛り上がりに差し掛かり、自身のボルテージが、最高潮に達しようとしているのを感じる。



【夢を、突き抜けて、明日を掴もう】



サビはそんな歌詞で始まる。



私も、自身の《夢/頬肉》を《突き抜けて/貫いて》、《明日を/役を》掴もう。







ムーンポケットと言われる、サビ前の、ほんの一瞬の空白があって。


そして、一気に自分の頬肉を引き裂いた。

314 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:28:49 ID:vygusHcs0








『い゛ぃ゛い゛ぃ゛い゛い゛ぃ゛い゛ぃ゛い゛い゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッッッッッ!!!!!!!!』







.

315 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:29:33 ID:vygusHcs0

自身の肉のひび割れから、血が染みだしてくる。

鏡に映る、その割れ目からは、黄色い玉のようなものが幾つか見え、これが"脂肪"でなのだと思った。
想像していたよりもずっと緩慢な出血量だが、痛みがひどい。

焼けた針金を、ずっとそこに押し当てられているかのような痛みが断続的に続き、
こめかみまで打ち抜くようにずきんずきんと悲鳴を上げている。


ただ、これで終わりではないのだ。

これではただの"スリット"であり"ポケット"足り得ない。

次にやらなくてはいけないのは、そのスリットに、カッターの刃を突っ込み、頬の皮と、頬肉との間に、隙間を作る事だ。

自身で切り開いた患部に、今度は地面に対して刃が垂直になるようにあてがう。
たった2cm程の横一文字に、上から、その刃を、挿入するのだ。

血まみれになった左手で、より強く頬を引き、更に開口部が良く見えるようにする。

そして、一段と歯を強く食いしばると、ゆっくりと、だが確実に、刃の先端を、その"スリット"に沈めていく。






『え゛げ゛ぇ゛げ゛ぎ が ぇ゛ぎ ぃ゛ぎ え゛ぇ゛ぎ ぇ゛ぃ゛ぃ゛い゛……』




さっきのような一瞬で花開いて散っていく、そんな刹那的な痛みではない。

皮から肉を剥離させるその作業は、魚の三枚おろしのようでもあり、
しかも、突っ込むだけでは中々刃が進まないので、その度に、ギコギコと、のこぎりのようにカッターを揺らす必要があった。

316 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:30:05 ID:vygusHcs0

既にレモナは鏡なんて見ていない。とうに白目を向いている。

しかし、その、白目のまま、ぶちゅぶちゅと自分の肉と脂肪とを、頬から引きはがしているのだ。

決してその肉を落としてはいけない。私が作るのは"ポケット"なのだから。

既に3cmほど刃が食い込んだところで、レモナは強烈な痛みで我に返った。
もう十分な深さに達しただろう。次は――。



"引き抜くのだ――"



もうこれは、ぐずぐずしている方が、痛みが長引くのは必至。
南無三と覚悟を決め、彼女は自身の肉に埋没した刃を引き抜いた。



『あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛っ゛っ゛っ゛!!!!!!!』



口から左手を離し、痛みにのたうち回る。

狭い洗面所を四方八方痙攣しながら転がる。

口の中から噴き出る血が、床を、壁を、自分自身を、ドス黒い赤で染め上げていく。

317 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/07/15(土) 05:31:00 ID:vygusHcs0

しかし、こうやって転げ回っている間にも、確実に、人体は、肉は、再生しているのだ。

だから、レモナは、最後の気力を振り絞って、ガーゼを円筒状に丸めたものを、その"ポケット"に押し込んだ。

ぐちり、ぐちり、と親指で押し込むたびに、噴水のように血液が横から勢いよく溢れだす。

歯列が全て真っ赤に染まり、それでもなお、キツく歯を食いしばりながら、最後までガーゼを挿入しきった。




こうして、"癒着"を防ぎ、肉と皮膚が乖離した状態で傷口がふさがれば、
彼女の左頬には、"ポケット"が一つ、出来上がるのだ。

痛みに耐えた代償として、もう左右別々の方向を向いてしまっている自身の目玉を、無理矢理指を突っ込んで正常な位置まで戻した。


この短時間でたいぶ"痛い"という感覚に強くなった気がする。

今なら、指の爪を全部剥がれても、声一つ上げないのではないだろうか。



頬の内側で、子鬼がペンチか何かで肉を挟んで捩じ切っていくような痛みがまだ続いていたが、
それ以上に、自分はやり切ったのだ、という満足感の方が大きく膨らんでいた。

鏡に向かってにっこりと微笑んだ自分の口から、一筋の赤い糸が、長く長く床まで垂れる。


『あぁ、これが、私と"役"とを繋ぐ、運命の赤い糸なのね』


彼女は狂気に染まった笑顔で、鏡の中の"勝ち組"の自分に、そう告げた。

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