忌談百刑

第22話 迷惑な同乗者

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24 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:35:13 ID:LFL3iTlc0



――それから1ヶ月。



彼女の件は、医者看護師間にあっという間に広がった。


かなり珍しい事例という事もあって、叔父は担当医を外され、もっとベテランの先生に変わる予定だったが、
しぃさんが叔父を信頼していて担当を変えないでほしいと申し出たので、
ベテランの先生に付き添う形で、叔父も病室を訪れることになった。

本質的に、彼女はでぃちゃんという未成年児童であるために、
メディアへの情報漏れが無いように、病院スタッフには緘口令が敷かれ、
ともかく一度肉体的にも、精神的にも治療を終えてから、改めて今回の事案の理解深度を深めようという事になった。


これが感染力と致死率の高い新型感染症に罹患した患者ならば、
もっと大きな病院に移して、大々的に研究を推し進めた方が良いのだろう。


しかし、今回は、あまりにも精神的に"閉じた"、家族間の問題でもあったので、
特殊な事例ではあるが、事を大きくしない方がいいだろうと医院長が判断したわけだ。

25 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:35:52 ID:LFL3iTlc0



彼女は、日に二度、回診を受けた。

一度目は、骨折の治療と体調管理、二度目は、メンタルケア。
その両方に叔父は付き添う事になった。そして、なるべく詳細なデータを取るようにと。



たまに、父親――しぃさんからすると旦那になるのだが――のフサさんが見舞いに来ていた場面に出くわす。

そんな時、しぃさんは、"でぃ"さんとして振る舞っている。やはり、自分が"しぃ"さんであると名乗り出て、
混乱を招きたくないようだ。

しかし、フサさんの方は何処か事務的というか、やはり心ここにあらずというか、妙に他人行儀というか、そういう印象を受ける。
思えば、でぃさんと彼は血のつながりが無いのだ。

いきなり血縁の無い思春期の女の子の、唯一の保護者になるというのは、それだけでも辛い事なのかもしれない。
変な距離感を感じてしまうのは、ひとえにそのせいなのだろう。


やがて、フサさんが病室から出ていくと、いつも通り体温を計って、問診して、後は少し世間話をして病室を後にするはずだった。


しかし、その日に限って、しぃさんは、『あの……最近少し、腹部に違和感があって……』と言い出した。
そう言えば最近、しぃさんは病院食を残すようになっているんで気を付けてくださいと看護師から言われていたんだ。





ベテランの先生は、しぃさんをベッドに寝かせたままシーツを捲り、彼女の腹部を見た。

26 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:36:28 ID:LFL3iTlc0









――明らかに、膨らんでいる。










昨日までは、こんな風ではなかったはずだ。
少なくとも、パッと見で分かるような下腹部の腫れは見当たらなかった。
しかも、この膨らみ方には見覚えがある。外科医なら、あるいは病院で務めているなら、誰しもが見たことのあるものだ。

妊娠。しかも膨らみが視認できるという事は"8週"以上。
所謂"妊娠三ヵ月"ってやつに差し掛かっているはずだ。

確かに、若い子の妊娠は、体型上にその兆候が表れにくいとは聞いたことがあるが、
昨日の今日で急に眼で見て分かるようになるものなのだろうか?
いや、それ以前に、この状況はつまり事故の前から、でぃちゃんが妊娠していたという事になる。


14歳。中学二年生。


先輩から若年妊娠で帝王切開の手術に立ち会った話を前に聴いたことはあるが、
現実でそういうものを感じると、どうしても生物的嫌悪感が拭いきれない。

本来だったら、このくらいの年齢で子供を産むことは生物学上好ましいらしいという事は知っている。

それでもなお、この事実に嫌悪感を抱くのは
多分、憲法とか法律とか、そういう人間が後付けで定義した倫理観にどっぷり浸かった生活をしているという証明であり、
自己の中で確立された常識と刷り合わないと思うからなのだろう。



当然ベテラン医師も、彼女に妊娠の兆候が表れている事は分かっているだろうが、
それをどう説明したらいいのか分からないようだ

27 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:36:51 ID:LFL3iTlc0



複雑なんだ。余りにも。


今のしぃさんに、その事実を告げることは、"でぃちゃん"がそういう行為に及んでいたことを知らせることと同義であり、
娘の性事情に親が介入するというある種の不道徳的な側面にぶち当たる事になる。


更にこのままお腹が大きくなっていけば、当然"出産"という事象に行きつく訳で、
そうなると、"でぃちゃん"の意識を欠いたまま、出産するなり、堕胎するなりの決断をしなければならない。





そして何より、あり得ないのだ。


昨日まで分からかったはずの腹部の膨らみが、今日急に視認できるレベルになるなんてことは。
それが何より、気味の悪さを引き立たせている。


ただでさえ精神的状況が芳しいとは言えない彼女にこれを伝えることが、
果たして正解なのかどうか、叔父たちはそこを計りかねていたんだ。






結局この日は、"便秘"という事にしておいて、下剤の処方をしておきますと告げて、病室を後にした。

28 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:37:59 ID:LFL3iTlc0



その日のデブリーフィングでは、早速彼女の状態が話し合われる。


彼女の介助をしていた看護師も同席させて、最近の体調の変化に関しての報告を改めてさせると、
ある一つの事実が浮かび上がった。



『あの……その話を聞いて、思い当たることがあって、彼女、入院してから一度も、"月経"が来てませんでした』



彼女が入院して1ヶ月が経つ。

勿論事故のショックから、月経不順に陥っている可能性は十分に考えられるが、
でも、叔父が見たものと合わせて考えれば考える程、それは紛れもない"妊娠"の事実を色濃くしていく。
全員が頭を抱えながら、この件をどう処理していくべきか悩み始めた。


そこで、先輩医師が口を開く。



『いやでも、昨日の今日で妊娠の兆候が出るなんておかしいですよ。悩むよりも先に一度精密検査したほうがいいですね。
 彼女の精神的な不安も考えて、妊娠の検査って言わずに、エコーとか出来ないですかね?』



確かに、エコー検査は何も妊娠だけを調べるものではない。

肝臓、腎臓、膵臓、胆嚢、膀胱、前立腺、子宮、腹部大動脈などを検査し、
脂肪肝や胆石、腎結石、良性腫瘤や悪性腫瘤、動脈瘤など、様々な疾患を発見することができる。



『それから、ちょっと考えにくいですけど"想像妊娠"って線もある訳ですから』



先輩が付け加える。

29 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:38:45 ID:LFL3iTlc0


そうだ。その可能性だってある。


人間でここまで顕著な想像妊娠の事例は聞いたことは無いが、
動物の世界なら割と頻繁に起こるものだ。

動物、特に群れで暮らす種類は、妊娠したメスは何かと群れ内で便宜を図ってもらえる場合が多く、
比較的生存に有利になる。

そのため、発情期に入ると、パートナーの見つからなかったメスも、
周りのメスの妊娠に合わせて、腹が同じように膨れるのだという。

その実は、黄体ホルモンと卵子が作用して、羊膜を形成したのちに、羊水の異常分泌が始まり、
それが進むと、破水し、大量の羊水が体外に排出されるが、実際は何も生まれてこない。


ともかく先輩の言う通り、まずは検査が先決だ。

もし本当に妊娠だったとしたら、その時にまた、この件をどう彼女に伝えるか考えればいいのだ。

想像妊娠であれば、何かまた別の精神疾患が作用している可能性もある。


動物と違って、人間は"妊娠恐怖症"から想像妊娠することもあり、
一概に性交渉のような事案と結びつくとも限らないんだ。




そう決まると、早速明日に一度検査をしようという事になり、
叔父らはエコー機材の準備に取り掛かった。

30 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:39:18 ID:LFL3iTlc0







――次の日。






機材を運んできた叔父たちは、思わず立ちすくんでしまった。

彼女の腹は、明らかに昨日よりも大きく膨れていた。

身に纏っている病院服を押し上げて、"臍ヘルニア"まで確認できる。


こんなもの、"妊娠"以外にあり得ない。"想像妊娠"でこのレベルまで腹が膨れる事なんてない。


でも、それこそ"あり得ない"んだ。昨日までは、医者だからこそ分かる程度の膨らみだったのが、
今回は、誰がどう見ても、異常な膨らみ方で、それが14歳の躰に起きているこそ、嫌な程に主張している。



しかも、それなのに、しぃさんは、奇妙な程、落ち着いていた。



まるで、それが当然と言った風で。

いや、むしろ、自身の腹部への違和感の解答が見つかったというような、晴れ晴れとした顔にも見える。
エコー機材を携えて棒立ちの叔父を見止めて、しぃさんはニコリとほほ笑んだ。


『先生、見てください。生きてたんです、"ギコ"さん』


そういって、愛おしそうに腹を撫でる。






意味が、分からない。

31 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:39:51 ID:LFL3iTlc0



彼女は、自分の腹の中に納まっているのが、"ギコ"だと、義理の息子だと言ったのか?


足元がぐにゃりと歪む。思わず膝をつきそうになる。


慌てて高価なエコー機材に手をかけて体を支えたものの、聞こえ始めた耳鳴りに顔を顰めずにはいられない。



――医学ではない。もっとなにか別の次元の恐ろしい事が起こっている。確実にそう感じている。
カルテにも載っていない。聴診器でも聞こえない。けど確実にそこにある"ナニカ"に直面しているのだ。


しかし、立ち止まっていると、その何かに飲み込まれてしまいそうな恐怖に駆られる。
原因が究明できないとしても、追及しなければ、動き続けなければ、
いずれ、あまりにもおぞましい暗闇に追い付かれてしまうという確信。

それを感じたからだろう。叔父は機材をベッドまで引き寄せると、
恍惚の表情をしているしぃさんに、話しかけたんだ。


『あ、あの……。やはり、一度検査をしましょう。腹部の違和感は、大きな疾患に繋がることも多く……』


『別に、構いませんよ。私には分かります。今、私のお腹の中には、あぁ……ギコさんが……』


にやにやと、ここ一ヶ月で一度も見たことのない表情を彼女は作る。

叔父の頭には、反射的に"メス"という言葉が浮かんでくる。

女、では決してない、もっと生々しい、"性"に従属した生き物の貌。
母性ではなく、完全な性愛。歪んだ肉欲。淫靡で妖艶な、女獣の香。
吐き気のするような、甘ったるい匂いが、病室に充満し始める。


純粋な嫌悪の"黒"に、"ショッキングピンク"が垂らされる。
そして、そのパレットは、汚らわしい、何色とも言い難い色に埋め尽くされていく。

32 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:40:29 ID:LFL3iTlc0

気付けば、ベテラン医師はいつの間にかいなくなっていた。

逃げ出したのだ。そう思う。

自分だって、許されるのであれば、今すぐに病室を飛び出してしまいたい。
しかし、既に、彼女の発する蜘蛛の巣状の爛れた情愛に絡め捕られてしまっている。


叔父は、もう、証明するしかないのだ。

彼女の腹の中に納められた、その"主"の存在を。

彼女の妄言を、現実世界に顕現させるしか、ないんだ。


ベッドに横たわる彼女の腹部は、既に出産前のようにパンパンに膨れ上がっている。
そこに震える手でジェルを塗りたくる。


『……ッ』


悲鳴を、かみ殺す。

動いたんだ。確かに、この肉の壁一枚向こうで、何かが、はっきりと。

すっぱいものが、胃からせり上がってきて、叔父は慌てて飲み込んだ。

いるんだ。彼女の腹の中に、蠢く何かが、確実に存在している。
たった一日で肥大化したそれは、この壁を突き破って出てくる日を今か今かと待っている。

スキャナを、ぬとぬとと蛍光灯の光を反射する腹部に押し当てる。


モニターには、広い空間が映し出される。

明らかに子宮内が広がっている。何者かによって押し広げられている。

しかし、その何者かが、見えない。

まるで、無色透明で質量の無い球体がその中に押し込められているようだ。
それは、丁度"魂"とでも呼ぶべき、眼に見えず、超音波も介さない何かだ。

33 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:40:57 ID:LFL3iTlc0


ぐりんぐりんと腹部上を往ったり来たりして見ても、
物理的な胎児の影は見受けられない。ただそこには"空間"が空いているだけだ。

先ほどは、あり得ないと棄却した"想像妊娠"の線が、少しだけ繋がり始める。

こちらもあり得ないが、何らかの疾患によって、羊水だけが、前例のないほど大量生成されている。
だから、彼女の腹の中には、なんてことない、ただの"水"で満たされているだけであって――。



あぁ、"腹水"も考えられる。



昔、山梨県付近で"地方病"と恐れられた、日本住血吸虫という寄生虫が引き起こす感染症。

現在は撲滅しているはずだが、その病状は、まるで妊娠しているように腹が大きく膨らむというものではなかったか。
男女問わず妊婦のように腹が膨らんで、やがて死に至るこの病は、天正9年、戦国時代にまで記録を遡ることが出来る。




そうだ。ちょっと符号が合っただけなんだ。

月経不順や、奇妙な腹の膨れや、今の彼女の精神的な疾患や、そういうものが合わさって、
たまたま"妊娠"だと思っただけなんだ。


でもこのあり得ないスピードで膨らんだ腹を鑑みると、やっぱり、別の疾患だと考える方が普通なんだ。




だとしても、異常事態には変わりないんだけど、叔父はこの事象に一応の説明が付きそうで胸を撫で下ろした。

34 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:41:29 ID:LFL3iTlc0




でも、その時。




あぁ、余計な事に気づかなければいいのに。




エコー機材に、『3D』のボタンを見つけてしまったんだ。




知ってるか?


エコー機材には幾つかの検査パターンが切り替えられるものがあって、
胎内をエコー検査する場合には、更に、2Dと3Dを切り替えられる機能が付いている場合がある。

3Dっていうのは、その名前の通り、胎内の映像を、より鮮明に映し出す機能だ。


モニターに映る胎児は、まるで粘土を捏ねて作られた人形みたいに見えるんだけど、
それでも、2Dよりも遥かに"命"を感じられるから、記念に3Dを所望する人もいるんだ。





だから、もし3Dにしても、何も映らなければ、そこに"命"は"魂"は無いってことなんだ。




確実に、自分と、それから彼女の頭の中で胎動し始めている、そのまやかしの赤ん坊を、消去することが出来る。

35 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:41:58 ID:LFL3iTlc0


しぃさんは、眼をつぶっている。モニターを見ていない。

彼女にとっては、モニターに何が映っていようがいまいが、関係ないのかもしれない。
でも、それでも、叔父にとってはそれが理性を保つ頼みの綱に思えたんだ。


指先を、切り替えのスイッチに伸ばす。



空気が、冷えていく。


寒い。真冬のような寒波が辺りを取り巻き始める。

そこに生命の温かさなんて微塵も感じられない。


だからこそ、余計にその存在を認めたくなくなる。
あの肉のドームの中に、胎児など、無論"死人の魂"など、入っているはずがないんだ。



叔父は、てのひらごと叩きつけるように、スイッチを勢いよく押した。




瞬間、白黒だったモニターが切り替わって、薄いオレンジの陰影で彩られた画面になる。

36 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:42:51 ID:LFL3iTlc0





『うわぁあぁああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!』




ガタンッ!


叔父は叫び声を上げながら、座っていた丸椅子ごとひっくり返った。
地面に叩きつけられながらも、その目をモニターから離すことが出来ない。




――顔だ。



モニターいっぱいに、顔が映し出されている。
丁度、人間の、"青年"の顔が。

本来なら胎児の全身が映るような倍率に設定してあるにも関わらず、
全面に顔だけが映されている。


それはつまり、あの腹の中に、"人間の頭"だけがすっぽりと入っている事になる。

不気味な泥人形のような顔は、眼が閉じられていて、眠っているというよりは、死体に見える。
無理矢理捩じ切った首を、そこに詰めたように、羊水の中を揺蕩っているのだ。



『あぁ、やっぱり、ギコさんだったのね』



ベッドの上から、心底嬉しそうな声が聞こえてくる。
彼女も目を開けて、モニターを見たのだ。


息子に向けるものではない声。愛しい人に捧げる声。


すると、モニターの方の顔も、ぐにぐにと口周りを動かし始める。

37 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:43:34 ID:LFL3iTlc0


叔父は、自分の手にスキャナが握られっぱなしなことに気が付いた。


映るはずがないんだ。今彼女のお腹には、スキャナが当たっていないのに。
それでもなお、モニターは鮮明に、その人間の顔、"ギコ"さんだというその頭を映している。



ぱく、ぱく、ぱく。




三度、はっきりと、彼は口を開いた。




だ、し、て。




間違いなく、そう動いた。





『えぇ、もうすぐ、もうすぐ会えるからね。ギコさん』





14歳の声帯から出せるものではない、艶めかしいそれを聴いた時、叔父は意識を手放した。

38 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:44:00 ID:LFL3iTlc0




――気付くと、仮眠室のベッドに寝かされいた。



幾つかの見知った顔が、叔父を心配そうに見下ろしている。
先輩医師と、看護師、それから、意外な事に、フサさんの顔もあった。

躰に掛けられていた白衣を取り去ると、緩慢に起き上がる。
軽いめまいと吐き気を感じ、頭を振ってから、三人に向き直った。

しかし、いざ自分が見たものを説明しようとしても、上手い言葉が見つからない。
特にフサさんには、何を話していいのか分からない。



そうして、誰もが沈黙するしかない中で、意外な事に、フサさんが口を開いた。



『申し訳ございません』





謝罪だった。

39 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:44:42 ID:LFL3iTlc0


『え、あ、ちょ――謝らなければならないのは、むしろこちらの――』



フサさんの唐突な言動に、面食らうように慌てた叔父の肩を、先輩医師が叩いた。
そしてゆっくりと首を左右に振る。今は話を聞け、と言っているようだ。

叔父は開いた口を絞めると、フサさんを見つめた。



『あの子――"でぃちゃん"の中に、"しぃ"がいることは、実は相当前に気付いていました。
 やはり、まだ結婚して一年とはいえ、一緒に過ごしていた時間がありますから、ちょっとした手癖や言動で。
 でも、私は怖かったんです。"妻"が、怖いんです』


そこまで言って、一度深く息を吐くと、一気に彼の顔が老け込む。
悲痛に恐怖の混ざった表情はこれから語ろうとしている真実の重さを示している。
やがてもう一度息を吸い込んで、続きを話し出す。


『妻は、息子と寝ていたんです。私と結婚したのも、むしろ息子と一緒に暮らすためだったのでしょう。
 妻と息子の関係に気が付いた時、私はあまりにも恐ろしくて、おぞましくて、目を背けました。
 気付かないフリをしていたんです。しかも、妻の方から、息子を襲うように――。
 二ヵ月ほど前に、妻から、"妊娠した"と報告を受けました。"貴方の子よ"、と。
 "私と貴方、二人の血が混ざった、初めての"そういってしぃは浮かれていましたけど、そんなの嘘に決まっているんです。
 本当は、息子との、"ギコ"との間に出来た子だったんです』


『――あの日は、妊娠検査薬ではなくて、初めてちゃんとした病院で検査を受けると、息子の運転する車で出掛けて行ったのだと思います。
 でぃちゃんにも、"あなたも、お姉ちゃんになるんだよ"なんて言いながら。そして、その途中で事故に遭って、死んでしまったのです。
 私は、それが、アイツと息子にまつわる全てが忌まわしかった。だから誰にも語りたくなかったし、
 でぃちゃんの中にアイツが潜んでいる事も触れたくありませんでした。もう、何もかも放り出して逃げ出してしまおうと思っていたんです』


『でも、今日を最後のお見舞いにしようと思って、病院を訪れたら、病室から悲鳴が聞こえて、
 それで、私は病室に駆け込んで、それで、そこで、見てしまったんです。
 あの、エコー検査のモニター、そこに、息子の顔が映っているのを。そして、その息子の頭に嬉しそうに声をかける、アイツを――』


フサさんは、そこまで言うと、両手で顔を覆ってしまった。
泣いているのか、肩が小刻みに震えている。
かける言葉が見つからなかった。



代わりに、先輩が続きを話す。

40 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:45:14 ID:LFL3iTlc0



『俺たちが病室についた時、フサさん、でぃちゃんの首を絞めていたんだ。
 何とか力づくで引き剥がすと、精神喪失状態に陥ってさ、んでお前は床に伸びてるし、大変だったんだぞ。
 あいにくモニターはもう消えてたから、俺たちは何にも見てないんだけどさ。
 警察を呼ぼうにも、確実にでぃちゃんの現状を説明しなきゃなんないし、そうなってくると、マスコミやら学会やらが集ってくるってんで、
 一旦こっちで事情を聴くことにしたんだ。幸いでぃちゃんは気絶こそしていたけど、命に別状はなかったしな。
 で、訳を聞こうと控室に引っ張ってきたら、"あの倒れていたお医者さんにも説明したい"って言うんで、今までお前の回復を待ってたんだよ』






滅茶苦茶な憎愛劇だ。


誰が被害者で、誰が加害者なのか、分からなくなる。
いや、それでも"でぃ"ちゃんだけは、確実に被害者なのは決定だが。


話を総合すると、あの日、事故に遭ったあの時、しぃさんは、ギコさんの子供を宿していた。

妊娠初期だったので、処置中も誰も気が付かず、また、フサさんも、それをこちらに報告しなかった。

そして、その"妊娠したしぃさん"が"胎児の精神ごと"、"でぃちゃん"の人格の中に書き加えられた。

しかし、その"胎児の精神"の中には"ギコ"さんの精神が書き加えられていて、


結果"でぃちゃん"は"ギコさんの精神を宿したしぃさんの人格"を補完したという事か?



頭がおかしくなりそうだ。




もう、この事象は、医学の手をとうに離れてしまっている。



認めるしかないのだ。魂の存在を。精神の混線を。

41 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:45:49 ID:LFL3iTlc0


あの事故の瞬間、"死"という大釜にぶちまけられた、彼らの精神が、煮込まれて崩れて、溶け合って、どろどろになって。
そしてそれが、死神の気まぐれで、まだ息の合ったでぃちゃんの体に流し込まれたんだ。

くそみそのごった煮になった魂の異常集合体。それが今の"でぃちゃん"の精神内に同乗しているんだ。





それで?




それを聞いて、自分たちはどうすればいい?

霊能者でも呼んで、一度彼女から魂を引っこ抜きでもして、
そして絡まり合った精神の糸をほぐしたのちに、"でぃちゃん"の精神だけ、元の躰に戻せと言うのか。


それこそ、医者の領分ではない。







再度の沈黙が、仮眠室に訪れた。

誰しもが、この事態に明確な解決案を示せぬまま、時間だけが過ぎていく。
時計を見れば、午前2時を超えている。思ったよりずっと長い間気絶をしていたらしい。




『まぁ、一回飯でも食いましょうか。近くにコンビニが――』




暗い雰囲気を切り替えようと、先輩が努めて明るい声を出したその時、別の看護師が仮眠室に飛び込んできた。

42 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:48:46 ID:LFL3iTlc0



『た、大変です! 猫村さんが、その、は、"破水"しました! 今、一応分娩室に運んで……』




それを聞いて、叔父は慌てて白衣を掴んで羽織った。


そして、分娩室へと駆けていく。


思わず笑ってしまう。何を、"分娩"するんだ。誰を救うんだ。

この場面で医者に何ができるんだ。僕に何が出来るんだ。

答えなんて出てこない。

白衣の裾がはたはたと音を立てて靡く。




この音は、医者が患者を救いたいと願って走ると、必ず鳴るんだ。



何を救えるのか、誰を救ったらいいのか。そんなの全然わからなかったけど。


それでも――






『それでも"僕"ってやつは、白衣に袖を通してしまう。その時は、それで十分だと思ったんだ』







実に叔父らしい思考で、彼は自分の精神状態を一気にニュートラルに引き戻した。

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