忌談百刑

第22話 迷惑な同乗者

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2 名前:語り部 ◆B9UIodRsAE[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:24:16 ID:LFL3iTlc0
【第22話 迷惑な同乗者】


"川 ゚ -゚)"





――さて、話していこうかな。



さっきのショボが、祖母から聞いた話だったように、私も他人から聞いた話をしようか。
まぁ、当然というか、なんというか、私の"叔父"から聞いた話だ。

前から言っているが、私の叔父はこの拝成市の総合病院の医院長をしている。

ただ、拝成病院に勤め続けている訳では無くて、幾つかの病院で経験を積んで、って感じらしい。
専攻は第一外科で、今でも外科手術の執刀を行う事も多い。

今は研修医を指導する立場にもあって、手術の手本となるような丁寧な施術を心がけているんだ。



当然、そんな叔父にも"研修医"だった頃がある訳で。



今回の話は、叔父がまだ、県外で"研修医"をしていた頃の話だ。

3 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:24:44 ID:LFL3iTlc0


――今から20年以上も前、叔父はとある大学病院に研修医として勤続していた。



その病院は拝成の総合病院以上の大病院で、毎日様々な患者が運ばれてきては、
治ったり、あるいは死んだり、そういう事が当たり前に繰り返されている場所だった。

病院なんてどこもそんなものだとは思うけど、まだ医師にすらなりれていない半人前の自分からしたら
"生きていく人間"と"死んでいく人間"の比率が想像する以上に心を蝕んでいくものらしい。



"ブラックジャックによろしく"って漫画を読んで事あるか? あるいは小説の"白い巨塔"でもいい。



( ^ω^)「ブラックジャックによろしくは読んだ事あるお!」


('A`) 「回を重ねるごとに登場人物のガタイが良くなってく漫画な」


ξ゚听)ξ「白い巨塔はドラマを見たわね」


(´・ω・`)「医療と正義の軋轢とか、腐敗した医学界とか、そんな話だよね」





医療現場には、そういうギャップが、当たり前のように存在している訳だ。

4 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:25:05 ID:LFL3iTlc0




『"医者"っていうのは、もっと人を救えるものだと思っていたんだけどね。でも当時は、"ゆっくり殺してる"って思う方が多かったのかな。
 躰にメスを入れて、薬を注射して、そうやって本来彼らに与えられるはずの"死"を無理矢理遠ざけているみたいな、そんな気持ちだったよ』


叔父はそんな風にこぼしていたよ。



それから、医者と言えど聖人君主ではないらしく、裏では権力争いや派閥争いが酷かったらしい。


だから余計に、"救う"という行為から乖離した場所に感じたんだろうな。


そんな場所だから、清浄なイメージの強い病院っていうのは、私達の想像以上に"澱んでいる"んだそうだ。



そこには、生々しいまでの人間の"死"と、それとは真逆の、生きている人間の"醜さ"が
お互いの身を食らい合う双頭の蛇みたいに、ごちゃごちゃと絡み合っているらしい。




それ故、時たま、"この世の出来事とは思えない現象"に出くわすのだと――。

5 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:25:33 ID:LFL3iTlc0


ある日、その病院に、救急患者が運ばれてくると連絡があった。
高速道路での車事故らしくて、一気に三人の人間を手術出来るような大病院はそこだけだったんだ。

連絡で患者の容体が報告される。



母親一人と子供二人。



母親は30代後半で、頭骨陥没及び、四肢欠損、大量出血とほぼ即死の状態だったらしい。
所謂、"全身を強く打って"死亡ってやつだな。

後部座席に座っていたらしいのだが、事故の勢いでフロントガラスを突き破って、
中央分離帯のポールにぶら下がるように倒れていたとの事だ。


子供のうち一人は男だった。十代後半くらいの若い子だ。
どうやらこの子が車を運転していたようだ。

コイツは、中央分離帯に激突した衝撃で、母親と同じようにフロントガラスを突き破り車外に放り出された後、
対向車線にまで吹き飛んで行って、トラックに下半身を轢き潰されたらしい。
こちらも救急車が到着地点で心肺停止の状態だった。


そして、唯一生存の望みあったのが、まだ中学生くらいの女の子で
ひしゃげた車体の隙間に上手く潜り込むような形で、助手席でぐったりとしていたと。

フロントガラスの破片や、恐らく母親の体がぶつかったであろう重度の裂傷、打撲、骨折が体中の至る箇所に散見されたが、
命に別状はないとの事だった。



つまりは、今からこの病院に、死体が二つと、生きた人間一人が運ばれてくるわけだ。

7 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:25:55 ID:LFL3iTlc0

タチが悪いのが、この死体二つが、"完全な死亡状態"では無いという事だ。

例えば、トラック同士の正面衝突で、運転手が"ミンチ状態"というのが、本当の即死で、
この場合は、病院には運ばれずに、そのまま警察の管轄になって、監察医務院で司法解剖にかけられる。

しかし、交通事故で、ほぼ即死の状態でも、"人間の形をある程度保っていて"、且つ"まだ体温がある"場合、
一度病院に運んで蘇生措置を取らなくてはならない。

ともかく、今から三人いっぺんに患者が運ばれてくるというので、病院内は騒然となった。
緊急の手術の準備を急ピッチで進め、即ブリーフィングの後に担当が決められる。

叔父は、研修医であったこともあって、比較的に作業の少ないであろう少女の手術に立ち会うことになった。
救急車から随時報告される患者の情報に照らし合わせると、おそらくは骨折部を切開したのちに、骨をボルトで固定する必要があるらしい。
その切開と縫合を今回は叔父が担当するとの事だった。

研修医と言っても、叔父はいわゆる"後期課程"に入っていて、施術も何度か経験していた。
盲腸の切除や、ポリープ除去くらいなら過去に経験済みだ。
骨をボルトで接合するのは何度かシュミレーターでの演習はしたが、
ここはベテランの先輩医師が担当するらしい。

やがて数台の救急車が病院に到着し、叔父たちは手術室へと向かった。

8 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:26:19 ID:LFL3iTlc0


――交通事故、における手術の成功とは何を指すのだろうか。



誰もが無事に、というのであれば、今回の手術は"失敗"だったことになる。



やはり、母親と息子は息を吹き返さなかった。



娘の方も、骨折した大腿の施術をしている最中に、左目の辺りが紫色に膨れだして、
眼底骨折の様相を呈してきた。

このままでは、顔が変形したまま頭蓋骨が癒着してしまったり、あるいは失明の可能性すらあると言う。

女の子という事もあり、執刀後の精神的な負担も考えて、この場でこちらの施術もしてしまおうとの事で、
急遽耳鼻咽喉科の医師もこちらに呼んで、同時に手術することになった。


叔父は、手術室の外に待つ父親に、その説明と了承を取る役を任された。

緊急手術とはいえ、女の顔にメスを入れるのだ。しかも、眼底骨折の手術自体は、後に回すことも出来る訳で。

当然顔面変形や失明のリスクは上がるが、同時に幾つもの箇所を施術する事もまた患者に負担をかけることには変わりがないので
場合によってはそれが死亡に繋がるかもしれない。

なので、特に未成年の場合は、その保護者に、説明と了承を取る義務が生じるんだ。

9 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:26:54 ID:LFL3iTlc0

手術室を出てすぐの廊下に設置された長椅子に、父親は座っていた。

項垂れるように顔を伏せて、その表情は読み取れない。

緊急性のある案件だったので、叔父はその父親の心中を察している場合ではないと判断し、
素早く肩を叩いて、こちらを向いてもらった。



――無表情だった。



その父親の顔は、妻と息子の死を悲しむわけでもなく、
娘の容態を心配するでもなく、
それから心ここにあらず、という風でもなく、
まるで、つまらないテレビ番組でも見てるかのような、酷く人間性が劣化してるような、そんな表情をしていたという。


予想外の顔に、叔父は思わず後ずさりをしてしまいそうになる。

異常事態に、異常な角度から、更に異常が発生しているという状況に、背筋が冷たくなった。

しかし、こうしている間にも、刻々と時間は経過するわけで、叔父は自分の心に喝を入れて、
その泥人形のような父親に向き直った。

叔父は娘さんの手術に眼底骨折の施術も必要になった事を父親に告げる。

こちらは緊急性の高いものではなく、患者の体力なども鑑みると、回復後に再手術での治療も可能であるが、
その場合は顔面の変形や、失明などの可能性もあり、特に女の子であれば、顔面の変形から、
術後のメンタルに多大な影響が出ることは必至なので、出来ればこの手術内での施術を勧めるという旨だ。


父親は、相変わらずぬぼーとした表情でそれを聞くと、――いや、本当に聞いていたのかは分からないのだが――
『じゃあ、それで』とだけ言うと、また同じように床をしこたま見つめるように、首を落とした。




腑に落ちない、といった様に首を捻りつつも、叔父は手術室に戻って眼底骨折の施術の許可を得た事を先輩医師に報告した。

10 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:27:17 ID:LFL3iTlc0

それから数時間後、女の子の手術は終了した。

入院期間は三ヵ月程度必要で、その後彼女埋め込んだボルトの抜釘手術の事や、体調の管理も考えると、
プラス一年は通院が必要だろう。

父親に対しての先の妻と息子の死亡と、娘さんのこれからに関する説明は先輩医師が行った。

叔父は娘さんを、病室に運び、看護婦と共に長期入院のための準備を整えると、
研修医という事もあって、少しの仮眠を取らせてもらえることになった。

既に手術室に入ってから日付を跨いでいた。

11 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:27:50 ID:LFL3iTlc0





体が、揺らされている。




誰かに起こされているようだ。

叔父は目の上にかけていたタオルを取り払って、むくりと起き上がる。
そこには、先輩医師がいた。彼が自分を起こしたようだ。


彼は、仮眠の交代をする旨と共に、父親から聞いた話を、叔父に聞かせてきたんだ。


どうやら、父親と母親は、"再婚"だったらしい。

しかも、一年前に再婚したばかりだという。

父親と母親にはそれぞれ連れ子がいて、父親の方が息子、母親の方が娘を連れていたと。
つまり、今回生き残った娘は、父親と直接的な血の繋がりが無いのだそうだ。

先輩が諸々の説明をしている時も、父親の表情は、妻と息子の死を悼んだり、娘の今後を心配する様なものではなく、
ただ淡々と事実を整理するような顔だったので、内心不審に思っていたが、その事実を父親から聴かされて、得心がいったのだそうだ。



『多分、娘さんと折り合いが悪かったんじゃねぇのかな。思春期の娘さんで、しかも相手の連れ子だ。
 上手くいく方が難しいってもんだよなぁ』




先輩はそうこぼしてから、先ほどまで叔父の寝転んでいたベッドに体を横たえた。

12 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:28:20 ID:LFL3iTlc0



朝のミーティングで、叔父はその子の担当医になった。


研修医でも後期課程の場合はほぼ普通の医師と変わらない業務を任される。
入院患者の担当医になった場合は、一日に数回病室を訪れて問診を行い、
適切な術後ケアをする必要があった。


先輩医師が大腿の骨折の施術を、耳鼻科の先生が眼底骨折の施術をそれぞれしている中で、
それら両方を客観的に観察し、また一部切開と縫合にも携わったという事で、叔父が選出されたようだ。


今受け持っている幾人かの患者と合わせても、大きな負担にはならない。

それに、自身が独立するまでにある程度色んな年齢層と性別の患者に関わって経験を積んでおきたいという気持ちも有ったので
むしろ今回、彼女の担当医になれたのは、叔父にとって嬉しい事だった。





『まぁ、のちに止めておけば良かったと思うんだけどね』





その話をしてくれた時、叔父はそう付け加えてきたよ。

13 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:28:44 ID:LFL3iTlc0





――彼女の目覚めの第一声から、既に状況は大いに狂い始めていた。


手術から一日経過し、彼女は目を覚ました。

目を覚ますと言っても、現実の彼女の左目は包帯でふさがれているので、
正確にいうのであれば、"片目を覚ました"とでも言えばいいのかな。

ともかくその報告を看護師から受けて、叔父は病室に向かった。

やはり、どんな人間でも、気付いた時に包帯ぐるぐる巻きで見知らぬ病室にいれば混乱するものだ。
特に女性は、そこからパニック症候群を併発することもある。

なるべく早い段階で、自身の置かれた状況や、施術の内容を説明する必要がある。

叔父が病室の前に来た時には、既に大きな叫び声が病室から漏れ聞こえていた。


既にパニックに陥っているらしい。

大きな事故にあって昏睡状態から目覚めると、目覚めた瞬間にまだあの事故の最中にいるような錯覚に囚われることがある。
この声の大きさからすると、まさにそういう状況にあるように思えた。


大きな危険が眼前に迫っていることに対して、恐怖している、そういう叫び声だった。

14 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:29:14 ID:LFL3iTlc0

慌てて病室に飛び込むと、看護婦が『落ち着いてください!大丈夫ですよ!』と声を駆けながら、
骨折しているはずの手足を振り回してベッドの上で暴れている少女の肩を必死に押さえつけていた。

こんな時、ドラマではどこからともなく取り出した注射器で鎮静剤を投与し、眠らせるなんてことをするのだろうが、
現実の病院でそんな事が行われることはまずない。鎮静剤には基本依存性があり、体内に入れないで済むならその方がいいのだ。

予め精神的な疾患がある事が分かっている場合でさえ、点滴の中に鎮静作用のある成分が含まれているものを使用するくらいで、
暴れる患者に注射器を突き立てるような事はしない。

むしろ暴れる患者の体内で、針が曲がって血管を傷つけたり、最悪の場合血管内で針が折れて、
そのまま血流に乗って何処かへ行ってしまうなんて事が起こる可能性すらあり、よっぽどの状況でないとやらないんだ。

ともかく担当医である自分が落ち着かせるしかない。
叔父はベッドに駆け寄ると、自分も声をかける。



『一体落ち着きましょう。深呼吸、できますか?』



しかし、少女はその言葉に聞く耳を持たずにこう言った。



『ギコさんは、ギコさんは無事なんですか!?』

15 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:29:45 ID:LFL3iTlc0




――ギコさん。



これは昨日の事故で死亡した、彼女のお義兄さんの名前だ。

その呼び方から、急に出来た義兄に対する距離感が読み取れる。

ともかく運転していたギコさんが、眼の端でフロントガラスを突き破った光景でも思い出しているのだろう。
そう考えて、叔父は再度声をかける。



『落ち着いてください。ギコさんの事もしぃさんの事も、今から説明しますから』



しぃさん、というのは彼女の実の母の名前だ。今回義兄と共に死亡している。

今からそれをどうやって伝えたものか。タダでさえパニックに陥っているというのに。
叔父は今後飛んでくるであろう幾つかの質問と、それに対する自分の回答を頭の中で準備する。

しかし、叔父の言葉を聞いた彼女から打ち返された言葉は、その予測のどれとも違っていた。

瞬間、少女の顔がこちらに、ぐるんっ!と勢いよく回されて、こう叫んだんだ。



『"私"の事はいいんです! ギコさんは、ギコさんは何処!?』






――は?

16 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:30:10 ID:LFL3iTlc0


彼女の名前は"でぃ"さんだったはずだ。
今の会話の中で、一度も"私=でぃさん"の話はしていない。
それなのに、"私"の事はいいんです、とはどういう事なのだろうか。

パニックによる言葉の言い間違いか。

若干の混乱を抱えながらも、叔父はもう一度彼女に向かって語り掛けた。



『落ち着いてください、でぃさん。ギコさんの事も、お母さんの事もちゃんと全部説明しますからね』



そう言った瞬間、彼女の振り乱していた手足がぴたりと止まった。

そして、自身の手足を、特に包帯の巻かれていない方の手足をまじまじと見つめ始めた。
元々見開かれていた瞳が、更に大きく見開かれていく。




あんなに早かった呼吸が、徐々に回数を減らしていく。
徐々にゼロに近づいていく。
そして、やがて、ぴったりと止まってしまう。



そうなったら、病室は、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、静寂に包まれた。



彼女の呼吸が止まったのと呼応して、叔父の呼吸も止まってしまったかのように、浅く静かなものになっていった。

17 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:30:52 ID:LFL3iTlc0

その頃には、叔父は察していた。

"何か異常な事が起こっている"

彼は過去に数度病院内でこんな空気を体験をしたことがあって、
それは丁度、入院患者が死亡して、がらんどうになった病室の中に蔓延する、あの寂しい空気と似ていた。

やがて、彼女――でぃちゃん――は、薄い唇をわなわなと震わせながら、こう呟いた。


『か、がみ、を。鏡を見せてくれませんか?』


叔父と看護師は、その言葉を聞いて顔を見合わせた。

眼底骨折の施術の為に、包帯に塗れた顔を、すぐに見せる事に抵抗があったんだ。

それはちゃんと説明して、彼女にある程度の覚悟をしてもらってからにしたかった。
しかし、その悲痛な面持ちを見ていると"NO"とは言い難かった。

少なくとも、今は表面上落ち着いているようにも見えるわけで、
ここで鏡の提供を拒否して、またパニックに陥られても困るので、叔父は看護師に手鏡を持ってくるように頼んだ。



その間も、でぃちゃんはずっと自身の掌と甲をぐるぐると回しながら、
眉間にしわを寄せて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


数分で看護師が戻ってくる。


叔父は看護師から手鏡を受け取ると、施術の説明をしながら、彼女に手鏡を手渡した。



『いいですか、でぃさん。貴女は交通事故に遭われて、眼底骨折という怪我をしました。
 そのため顔にメスを入れましたが、顔の形が変わったり、傷が目立つような処置はしていないので――』



叔父のそんな言葉には聞く耳を持たないと言った様に、彼女は手鏡をひったくる。
そして、その鏡に映る、顔半分を包帯で覆った自分自身と対面した。

18 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:31:29 ID:LFL3iTlc0



『げ……ぇ……ぁ……?』



人間の、声ではない。

何かもっと、下等な、蛙でも踏みつぶしたような声が、彼女の喉から漏れ出てきた。

右目が眼振を起こしてぶるぶると左右に振れる。
興奮状態に陥る瞬間に、こういう症状が現れることがある。

しかし、先ほどのように表に出てくる興奮ではない。
彼女の内側だけが、ぶずぶずと燃えていく、まるで木炭の燃焼のような興奮だと叔父は思った。



そして、持っていた手鏡をぽとんと、自身の下半身を覆うシーツに落とすと、
こう言ったんだ。


『で、"でぃ"なの? 貴女は……』


先ほどから、彼女が漏らす言葉に要領を得ることが出来ない。

事故後の混乱と断じてしまえばそれまでだが、今の彼女の表情からは、混乱の症状は読み取れない。

むしろ、なにか重大な事実を、受け止めるような、理性的思考と感情的起伏の入り混じった、
沈痛な葛藤の表情だった。


『あの、でぃさん……大丈夫ですか……? 顔に違和感がありますか……?』



先ほどから同じような台詞しか出てこない自分の不甲斐なさを感じながらも、
叔父は声をかけずにはいられない。

彼女が抱える、重篤な真実を、担当医として知らなければならないと思ったんだ。





でも、その"真実"は、まだ研修医だった叔父には、あまりにも重いものだった。

19 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:31:58 ID:LFL3iTlc0



『あ、わ、私は……"しぃ"なんです……。それなのに……"でぃ"の……顔に……』



『……あの、一旦落ち着きましょう。私達が行った眼底骨折の治療は――』


――今なんて言ったんだ?



彼女は自分が"しぃ"だと、そう言ったのか?


ミーティングでは確かに彼女は"でぃ"さんであると言っていたし、
確認したカルテも、そうなっていた。


自分が何かを勘違いしてる訳では無いだろう。


先ほどから彼女の言動に感じていた違和感が、濃密な異常性を見せ始める。

さっき自分が"ギコ"と"しぃ"の話をしようとした時も、彼女は"『私の事はいいんです』"と言っていた。

"でぃ"さんの話はしていないのにも拘らずだ。

先ほどは事故からの覚醒直後で記憶が混乱しているのかと思ったが、
鏡を見てからその兆候はますます強まっている。


いや、むしろ鏡を見てからの方が、パニックとはまた違う、"自身の理解を超えた"何かにぶち当たってるような様子を見せている。


混乱ではなく、その事実が受け止められないかのような、困惑。



その表情と言動から、叔父は一つの仮説に辿りつく。

20 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:32:36 ID:LFL3iTlc0




『――人格の補完……?』




つまり、今"でぃ"さんの体の中に入っている人格は"しぃ"さんのものなのだ。


いや、医学的には正しい解釈ではない。叔父は反射的に過去に読んだことのある論文を思い出す。



ある精神疾患に関する論文だ。

事故などに因って、脳機能に障害が出る場合がある。

言語障害、味覚障害、無痛症、そして記憶障害。

一般的なイメージだと"記憶喪失"
事故のショックから、過去の記憶を思い出せなくなるものだ。

しかし、もう一つ、少ないながらも報告されている事例がある。

これは、交通事故などの時に、"親しい同乗者"がいる場合に限られるのだが、
同時に事故に遭った際に、一方が、もう一方の"死"を目の当たりにしていると、
反射的に"自分の中に、その死者の人格を補完しようとする"というものだ。


つまりは、突発的な親しいものの死のショックを軽減するために、
自身の記憶の中から、その人の人格を再現し、あたかも、その人が生きているように振る舞うんだ。


"でぃ"ちゃんは、"しぃ"さんの"死"を目撃したんだ。


後部座席に座る母親が、衝突の衝撃でフロントガラスを突き破ってぐちゃぐちゃに潰れる様を。

そして、そのショックから自身の心を守るために、彼女の人格を脳内で補完した。


それから、自分自身は深層心理の中に沈んでしまったのだ。

21 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:33:20 ID:LFL3iTlc0



『……貴女は、"しぃ"さん……なんですね?』


未だにわなわなと唇を震わせる彼女に声をかける。

ここで大事なのは、先ほどの仮説に基づいて、彼女に理解を示すことだ。

この状態の患者に"真実"を突き付ける行為は、最終的に双方の人格の崩壊を招くことになりかねない。

後でメンタルカウンセラの先生とも相談しなくてはいけないだろうが、
今は緊急を要するので、自己判断で、上手く彼女の現状を把握していくしかない。



"しぃ"さんは、叔父を見る。

それは自分自身に起こっている非現実を解きほぐしてくれる、天からの一筋の糸を見る目をしていた。
困惑、混乱、失意、悔恨、そういう感情の奔流の中で、光を見出したいという渇望。


『わ、私も自分の言っている事が、おかしいと……でも、本当に私は"しぃ"なんです……
 今は、"でぃ"の体の中にいるみたいなんですけど……私は……』


もちろん、これは、本当に"しぃ"さんの魂が、"でぃ"さんの体の中に入ってしまったわけではなく、
あくまでも、"でぃ"さんが、"しぃ"さんを演じているに過ぎない。


しかし、彼女にその自覚は無いはずだ。今この瞬間、彼女は確かに"しぃ"さんであり、
その前提で会話を進めなくてはならない。

22 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:33:58 ID:LFL3iTlc0



『分かりました……。過去にもこう言った事例があると聞いたことがあります……。
 "人格の入れ替わり"、今の貴女は"でぃ"さんの体の中に入った"しぃ"さん、そういうことですね?』


"人格の入れ替わり"と称したのも、彼女の精神を安定させるためだ。

現実に起こり得ない現象ではあるが、創作に置いて多用されるこの設定は、
ある程度患者に現状を把握させるのに都合がいいと思ったんだ。


それから、"しぃ"さんの人格そのものにも、"人間性"を認めることで、
信頼を得たかったという側面もあった。

"貴女はでぃさんの作り出した擬似人格に過ぎないので、さっさと消滅してください"

なんて口が裂けても言えるわけがない。


『……ともかく、一度現状を説明させてください』


叔父はそう言うと、彼女ら一家を襲った事故の顛末を語った。



息子のギコさんの"死"、しぃさんの肉体的な"死"、そして、"でぃ"さんの精神は今どうなっているか分からないという事。
恐らく数日以内に、ギコさんとしぃさんの葬儀が行われて"しまう"はずだ。



そこまでを、やんわりとオブラートに包めるところは包みながら、詳細に説明する。

それを聞くしぃさんの下唇を噛み締める力が強まっていく。

シーツを握る手も震え、眼の下から涙の塊が盛り上がってくる。


複雑ながらも、自分を含めた三人の死を、いま彼女は見つめているのだ。
義理の息子の確定的な死、血の繋がった娘の擬似的な死、自身の肉体的な死。

23 名前:名無しさん[] 投稿日:2017/08/07(月) 20:34:39 ID:LFL3iTlc0


『……あぁ、ギコさんは死んでしまったのね』



目を閉じて、涙を零す。
はらはらと、静かに。




しかし、何かがおかしい。

彼女は、先ほどから"ギコさん"の心配しかしていなかった。

最初に聞こえた叫び声も、今も、ずっと義理の息子の名前しか彼女の口から出てこない。


そこに不穏なものを感じてはいたが、何か嫌に不気味な毒沼の底のような嫌悪感がその思考に纏わりついてきて、
それ以上考えるのを拒否してくる。



それから数分後、病院服の袖で、軽く涙の跡を拭うと、彼女は言った。


『……大丈夫です。もう、大丈夫……。ともかく、私は、早く怪我を治して、この体を、娘に返せるようにしたいと思います。
 ……それから、この事は、"フサ"さん……夫には言わないで欲しいんです』


『……それはちょっと難しいですね……。患者の容体をご親族の方に報告する義務がありますので……。
 それに場合によっては、旦那さんにも協力していただくこともあると思います』


『……じゃあ、せめて、もう少し落ち着いてからにして頂いても宜しいですか?
 葬儀の直前に、"やっぱり妻は心だけ生きてました"と知るのは、あまりにも、その、酷だと思いますので……』


そういって彼女は頭を垂れた。

それが、お願いしているのか、ただ現状に落胆しているのかは分からなかったが、

申し出に関しては一理あると思ったので、叔父はそれに関しては了承した。
ただし、骨折の治療と共に、メンタル面の治療も進めさせてもらう事は約束させてもらった。

叔父は、この件を、デブリーフィングでどう報告した物かと思案を巡らせながら、病室を後にした。

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