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1 名前:名無しさん[] 投稿日:2016/03/30(水) 05:54:21 ID:IwfGsF8AO
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「ああ、行ってしまわれるのですね」
手放した言の葉は、風船のように空にとけて消えていってしまいます。
春の終わりのころ、風の吹く日の早朝のことでございました。
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2 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 05:57:02 ID:IwfGsF8AO
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―春に抱かれて恋する川д川のようです―
「大ブン動会(第2回紅白)」参加作品
原案―谷山浩子「たんぽぽ」
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3 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 05:59:01 ID:IwfGsF8AO
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あれは、丁度去年の春ごろ。
少し風の強い日のことでした。
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( ゚∀゚)「暫く置いては頂けませんか」
旅宿である我が家を訪れたその方は、そうおっしゃって、一年分のお部屋をお取りになりました。
歳の頃は二十三、四に見える背が高めの青年で、はっきりとした目元が印象的な方です。
動き易そうな服装は、旅人のようにも見えますが、お荷物の中に、平らな長方形の形をした、大きさがわたしの背の半分ほどもありそうなお鞄がありました。
(゚、゚トソン「お客様、お荷物をどうぞ」
あのお荷物は、もしかしたら中身は画板やカンバスの類いではないかしら、と、ふと思われました。
なんとなく、そのようなものがお似合いであるように感じられたのです。
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4 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:01:02 ID:IwfGsF8AO
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数日のあと。
従業員の方から、彼が画家でいらっしゃることを聞き、自分の予測が当たっていたことを知りました。
すこしわたしの家についてお話します。
わが旅宿は旧くは大正のころから続いているそうです。建物はそのころの古い民家を改築したものであり、レトロモダン、伝統的といえば聞こえはいいものの、実際は華やかな他のお宿と比べ、客室も少なく、古い田舎宿と思われてもしかたのない現状です。
ですから、わざわざわが宿を長期滞在の地に選ばれたことで、芸術家の方とは物好きなものなのかしらと、たいへん失礼な偏見を抱いていたのです。
そういえば、わが宿には画家の方なら興味を持ちそうなものがありましたか。
と、お昼のころ、お部屋のお掃除をしながらそのようなことを考えていたときでした。
件の画家の方のお部屋が終わり、廊下へ出ると、ちょうど彼が画板をお持ちになって、お部屋に戻っていらっしゃいました。
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5 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:02:00 ID:IwfGsF8AO
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川д川「お帰りなさいませ」
ご挨拶すると、
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( ゚∀゚)「貴女が清掃して下さっていたのですね。ありがとうございます」
思いもかけないお言葉をかけられて、わたしは固まってしまいました。返事をする間もなくご自分のお部屋に入られ、助かったという思いでおりました。
当然のことに感謝をいただいて、どうしてよいか分からなかったのです。
川;д川「………」
この時が、長岡さんと言葉を交わした最初のことでした。
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6 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:05:16 ID:IwfGsF8AO
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( ゚∀゚)「こんにちは。いつもお疲れ様です」
川д川「こんにちは。…ありがとうございます」
ご挨拶の文句は、これが定番になっていました。
(゚、゚トソン「貞子、あんた長岡様に顔覚えられたね。珍しい」
様子を見たらしく、女将である母が、お仕事中には珍しく話しかけてきました。
川д川「…あのお客様、長岡様というのですか?」
(゚、゚トソン「知らなかったのかい。これから一年もいらっしゃるんだから、お名前くらい覚えなさい」
もっともなお叱りでした。
川д川「はい。申し訳ありません」
(゚、゚トソン「お話しすることもあるだろうから、粗相のないように」
母はそう念押すと、奥に戻っていかれました。
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7 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:06:23 ID:IwfGsF8AO
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お話し。
母は、さすがに痛い部分を突いてきました。
「珍しく顔を覚えられた」と母は言いました。それは、わたしが極力目立たないように、お客様と最低限の接触しかしないようにしているからです。母も、それをわかってわたしに仕事を割り振っています。
…わたし、都村貞子は、非常に内気な性分なのです。
人様に何かを話し掛けられても、受け答えするまでに時間がかかってしまいます。
誰とも話の調子が合わせられない、そんな者とあえて友人になろうという方だってほとんどおりません。
決まり文句、今日のお天気などのような分かりきったものごとならともかく、そうでなかったら。
母はそのことを言っているのです。
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8 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:07:34 ID:IwfGsF8AO
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川д川「…どうしよう」
数時間ののち。応接間に一人、整備を行いながら、母の指摘を思いため息をついておりました。
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( ゚∀゚)「どうかなさいました?」
川д川「!……大変失礼いたしました、長岡様」
なかなか人の来ない時間帯とはいえ、お客様の見えるところでため息などつくべきではありません。
それも、人がいらっしゃったのに気づかないなんて。
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( ゚∀゚)「いえ、俺が突然話し掛けてしまっただけですから。
お若いのに働いていらっしゃって、色々と大変でしょうし」
川д川「……そんなことはありません」
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( ゚∀゚)「御立派だと思いますよ。
そういえば、俺の名前覚えて下さっているんですね。ありがとうございます」
川д川「いえ……とんでもございません」
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9 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:08:53 ID:IwfGsF8AO
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どうしよう、と先程考えていたことが現実に起こってしまいそうです。
まだ、不自然にはなっていません。このまま、しっかりと受け答えをできれば……。
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( ゚∀゚)「そうだ。俺は風景画を描くのですが、この辺りでの貴女の好きな風景は何ですか?」
お勧め、ではなく。
わたしの……好きな風景?
川 -川「――」
そこで、口がぴたりと閉じてしまいました。
答えが出ないのではなく、言葉に、できないのです。
川;〜川「………」
何か言おうとしても、もごもごと動くばかりです。
早く…早く、言わなければ。
川;д川「わ、た……」
ああ、もう。
不自然、なんてどころではありません。
どうして、言葉が出ないの。
気分を害させてしまう。
不快にさせてしまう――。
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10 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:10:09 ID:IwfGsF8AO
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( ゚∀゚)「………」
川;д川「……?」
どうしてでしょうか。
…困るでもなく。
お話を進めるでもなく。苛つかれるのでもなく。
ただ、軽く笑んだまま、こちらを見るだけ。
まるで、わたしの答えを、ただじっと待っていてくださるように――。
そのことに気づくと。
わたしを鉄のように固めていたものが、するすると溶けていき、嘘のように流暢に口が動きました。
川д川「…たんぽぽ畑です。当宿を出でてより西の、うちの名物と言われる場所でございます。
月並みではありますが、夕焼けの時に、色をいっそう濃く見せる一面のたんぽぽが…」
川ー川「わたしの、一番好きな風景です」
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11 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:11:45 ID:IwfGsF8AO
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川д川(……言えた!)
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( ゚∀゚)「なるほど。夕焼けの下では、まだ見たことがありませんでした。
丁寧なご紹介、ありがとうございます。今から行けば、丁度いいでしょうか」
川д川「…ええ。行かれるのでしたら、どうぞお楽しみになってください」
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( ゚∀゚)「はい、本当にありがとうございます。…あの、お名前を伺っても?」
川д川「…はい。都村と申します。都村、貞子です」
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( ゚∀゚)「都村さん。女将さんと同じ名字でいらっしゃいましたか。
それではまた。早速行ってきます」
川ー川「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
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12 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 06:12:34 ID:IwfGsF8AO
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久しぶりに、…本当に久しぶりに、他人の方と流暢に受け答えができた瞬間でした。
自然な笑顔さえ浮かべて、道具などはすでに準備していらっしゃったらしい、彼をお見送りしました。
川ー川「……こちらこそ。ありがとう、ございます」
この日、…いえ、初めて彼がいらっしゃった日。
宿に、わたしの心に、春の風が吹き込んだのです。
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